聖教を見ない日とてはない。木曾《きそ》の冠者《かじゃ》が都へ乱入した時だけ只一日聖教を見なかった」それ程の法然も後には念仏の暇を惜んで称名《しょうみょう》の外には何事もしなかったということである。
六
法然はこれ程の学者であり天才であったけれども、学問と才気が到底自分の心身を救うことは出来なかった。名聞利養《みょうもんりよう》が如何ばかり向上するとても解脱《げだつ》、出離《しゅつり》の道を示してはくれない。学問が深くなり、名誉が高くなるにつれて、彼の心の煩悶は増して来た。
一切経を開いてその道を求めんと繰返し読むこと五返、釈迦の一代教迹《いちだいきょうしゃく》の中に己《おの》れの心の落ちつき場と、踏み行くべき足跡を見つけようとしたが、つらつら思い見れば見る程、彼も難くこれも難い。
そのうちに恵心僧都の「往生要集《おうじょうようしゅう》」は専ら善導大師の釈義を以て指南としている。そこで善導の釈義を辿《たど》って遂に、
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一心専念弥陀名号《いっしんせんねんみだみょうごう》 行住坐臥不問時節《ぎょうじゅざがふもんじせつ》 久近念念不捨者《くごんね
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