るということを各々誓いを立てて帰った。山徒は本意を遂げざることを怒って、尚その遺骸の行方を尋ねているという噂があったから、同じ二十八日の夜忍んで広隆寺の来迎房円空が許に移して置いてやっとその年も暮れた。
翌安貞二年正月二十五日の暁、更に西山の粟生野の幸阿弥陀仏の処へ遺骸を移して、そこで荼毘《だび》に附した。荼毘の処に三肢になった松があって、それを紫雲の松と名附けられ、その荼毘の跡には堂を建てて御墓堂と名づけて念仏した。今の光明寺である。
遺骸を拾い、瓶《かめ》に納め、幸阿弥陀仏に預けて置いて、その後二尊院の西の岸の上に雁塔《がんとう》を建ててそこへ遺骨を納めることとした。
四十三
白河の法蓮房信空(称弁)は中納言顕時の孫、叡山へ送られて、黒谷の叡空上人に就いていたが、叡空が亡くなってから、源空上人に就いた。内外博通、智行兼備、念仏宗の先達、傍若無人と云われた人である。享年八十三。安貞二年九月九日、九条の袈裟を掛け、頭北面西にして法然の遺骨を胸に置き、名号を唱え、ねむるが如く往生を遂げた。
西仙房心寂も、元叡空の弟子であったが、後には法然を師として一向専修の行者
前へ
次へ
全150ページ中130ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング