の宗旨を停止《ちょうじ》の勅命を下されたけれども、厳制すたれ易《やす》く興行止まりがたく、念仏の声は愈々《いよいよ》四海に溢れた。
 ここに上野国から登山した並榎の竪者《りっしゃ》定照という者が深く法然の念仏をそねみ「弾撰択《だんせんじゃく》」という破文を作って隆寛律師の処へ送ると律師はまた「顕撰択《けんせんじゃく》」という書を作って「汝《なんじ》が僻破《へきは》の当らざること暗天の飛礫の如し」と云うたので、定照愈々憤りを増し、事を山門にふれて、衆徒の蜂起をすすめ、貫首に訴え、奏聞を経て隆寛幸西等を流罪にしその上に法然の大谷の墓をあばいて、その遺骨を加茂川へ流してしまうということをたくらんだ。
 それが勅許があったので、嘉禄三年六月二十二日山門から人をやって墓を破そうとする、その時に六波羅の修理亮《しゅりのすけ》平時氏は、家来を伴《つ》れて馳せ向い、
「仮令《たとい》勅許があるにしても、武家にお伝えあって、それから事をなさるがよいのに、みだりに左様の乱暴をなさるのはよろしくない」というて止めたけれども承知をしない。墓を破り、家を破し、余りの暴状に見かねて、「その儀ならば我々は武力を以て
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