ましたけれども、ひが事であると思って今は後悔して居ります」
 といわれたそうである。
 禅林寺の大納言僧都静遍は、池の大納言頼盛卿の子息で、弘法大師の門であり、はじめは醍醐の座主勝憲僧正を師として小野流の流れを受け、後には仁和寺の上乗院の法印仁隆に会って広沢の流れを伝え、事相教相抜群の誉れのあった人であるが、一代がこぞって撰択集に帰し、念仏門に入る者が多いのを見て、嫉妬の心を起して、撰択集を破し、念仏往生の道を塞ごうと思ってその文章を書く料紙までも整えて、それから撰択集を開いて見た処、日頃思っていることに相違して却って末代悪世の凡夫の出離生死の道は偏《ひとえ》に称名の行にありと見定めてしまったから、却ってこの書を賞玩して自行の指南に備えることとし、日頃嫉妬の心を起したことを悔い悲しんで、法然の大谷の墳墓に詣でて泣く泣く悔謝し、自から心月房と号し、一向念仏し、その上に「続撰択」を作って法然の義道を助成した。

       四十一

 毘沙門堂《びしゃもんどう》の法印明禅は、参議成頼卿の子息で、顕密の棟梁山門の英傑とうたわれた人であるが、道心うちに催し隠遁のおもいが深かった。はじめて発心
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