加えたによって重ねて荘厳記という一巻を作って、それに答えたけれども却って、名誉を落されたということである。入道民部卿長房卿は明恵上人に帰依の人であったから、その摧邪輪を信じて高野の明遍僧都に見せようとした時、僧都が、
「何の文ですか」
 と尋ねたのに、
「撰択論を論破した文です」
 と云われたから、明遍、
「わしは念仏者でございます。念仏を難破した文章をば手にも取るわけには行きませぬ、眼にも見る気は致しません」
 といって返されたが、後にはこの民部卿入道も撰択に帰して、「何れの文が邪輪なるらん」といわれたということである。
 その後仁和寺の昇蓮房が、かの摧邪輪をもって明遍僧都に見せた処、僧都が云うのに、
「凡そ立破《りゅうぱ》の道はまず所破《しょは》の義をよくよく心得てそれから破する習いであるのに、撰択集の趣をつゆつゆ心得ずして破せられたる故にその破が更に当らないのである」
 という意味でとり合わなかったという。この僧都は論議|決択《けっちゃく》のみちにかけては日本第一の誉れのあった人である。
 明恵上人も後に菅宰相為長卿の許へ行った時に摧邪輪のことが話に出た時、
「そういうこともあり
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