りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]《げんうん》をぐえんくい[#「ぐえんくい」に傍点]と読んだので法然がそれは暉と書けばくい[#「くい」に傍点]と読ませるが、※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]と書いてはうん[#「うん」に傍点]と読むのがよろしいと訂した。すべて斯様な誤りを七カ条まで訂されたので、僧都が罷り出でて後弟子に語って云うには、
「今日法然房に対面して、七カ条の僻事《ひがごと》をなおされた。常にあの人に会っていれば学問がどの位つくかしれぬ。あの人が立てた処の浄土の法門が仏意に違っているということはない。仰ぎて信ずる外はない。あの上人の義を謗《そし》るは大きなる咎《とが》である」
といって自分の拵《こしら》えた決疑抄三巻を焼いて了った。そういう因縁があって法然歿後の法要の導師を勤め前非を懺悔し、念仏の行怠りなく、建保四年|閏《うるう》六月二十日に七十二の年で禅林寺のほとりに往生を遂げられた。
栂尾《とがのお》の明恵上人《みょうえしょうにん》(高弁)は摧邪輪《さいじゃりん》三巻を記して撰択集《せんじゃくしゅう》を論破しようとした。法然の門徒がこぞって難を
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