念仏は怠りなかったが二十五日の午《うま》の刻から念仏の声が漸くかすかになって、高声が時々交じる。まさしく臨終であると見えたとき、慈覚大師の九条の袈裟を架け、頭北面西にして、
「光明遍照《こうみょうへんじょう》。十方世界《じっぽうせかい》。念仏衆生《ねんぶつしゅじょう》。摂取不捨《せっしゅふしゃ》」
 の文を唱えて眠るが如く息が絶えた。音声が止まって後、なお唇舌を動かすこと十余反ばかりであった。面色殊に鮮かに笑めるが如き形であった。これは当に建暦二年正月二十五日午の正中のことであった。春秋満八十歳、釈尊の入滅の時と年も同じ、支干もまた同じく壬申《みずのえさる》であった。
 武蔵国の御家人桑原左衛門入道という者、吉水の房で法然の教えを受けてから、国へ帰ることを止め祇園の西の大門の北のつらに住いして念仏をし、法然に参して教えを受けていたが、報恩の為にとて上人の像をうつして法然に差上げた。法然がその志に感心して自からその像に開眼《かいげん》してくれた。法然が往生の後はその像を生身の思いで朝夕帰依渇仰していたが、やがて往生の素懐をとげた。年頃同宿の尼が本国へ帰り下る時、その像を知恩院へ寄附した。
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