の後は何処を御遺蹟といたしましょうか」
 と尋ねた。法然答えて、
「一つの廟所《びょうしょ》と決めては遺法が普《あまね》くわたらない。わしが遺蹟というところは国々至る処にある。念仏を修する処は貴賤道俗をいわず、あまがとまやまでもみんなわしの遺蹟じゃ」
 十一日の巳《み》の刻に弟子が三尺の弥陀の像を迎えて病臥の側に立て、
「この御仏を御礼拝になりますか」といった処が、法然は指で空を指して、
「この仏の外にまだ仏がござる。拝むかどうか」といった。それはこの十余年来念仏の功が積って極楽の荘厳仏菩薩《しょうごんぶつぼさつ》の真身を常に見ていたが、誰れにも云わなかった。今|最期《さいご》に臨んでそれを示すといったそうである。
 また弟子達が仏像の手に五色の糸をつけて、
「これをお取りなさいませ」
 といった処が、法然は、
「斯様のことは常の人の儀式である。我身に於てはそうするには及ばぬ」
 といって取らなかった。二十日の巳の時から紫雲が棚引いたり、円光が現われたり、さまざまの奇瑞があったということである。
 二十三日から法然の念仏が或は半時或は一時、高声念仏不退二十四日五日まで病悩のうちにも高声
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