の心をうつものが多かったから、聴衆も多く集まり、それを聞いて発心する人も少くはなかったうちに、御所の留守の女房連が、それにききほれて、遂に断りなく出家をしてしまった。後鳥羽院遷幸の後、そのことを聴かれて、大に逆鱗《げきりん》あり、翌年二月九日住蓮、安楽を庭上に召されて罪を定むる時、安楽房が、
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見有修行起瞋毒《けんうしゅぎょうきしんどく》。方便破壊競生怨《ほうべんはえきょうしょうえん》。如此生盲闡提輩《にょししょうもうせんだいはい》。
毀滅頓教永※[#「さんずい+冗」、第4水準2−78−26]淪《きめつとんきょうえいちんりん》。超過大地微塵劫《ちょうかだいちみじんごう》。未可得離三途身《みかとくりさんずしん》。
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の文を読み上げたので、逆鱗愈々さかんにして、ついに官人秀能に仰せて六条川原で安楽を死刑に行われてしまった。
安楽を死刑に処せられた後も逆鱗なお止まず、それにこれを機会として多年法然の念仏興行に多大の嫉妬と反感を持っていた勢力が喰い入ったものか、遂にその咎が師の法然にまで及んで来た。
法然は「藤井元彦《ふじいのもとひこ》」とい
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