れたいということを訴えた。しかしながら朝廷の上下に法然の帰依者が多く、又念仏の邪道に赴く輩はそれらの浅智より起ったので法然の咎《とが》ではないということの宣旨が十二月二十九日に下った。

       三十二

 こんなような訳で嫉妬妨害者が起って来る。そこで法然は生死を厭い仏道に入るべきいわれ、別しては無智の道俗男女の念仏をすることによって、諸宗の妨げとはならないということを聖覚法印に筆を執らせて一文を作らせた。それが「それ流浪三界のうちいずれのさかいにおもむきてか釈尊の出世にあわざりし。輪廻四生のあいだいずれの生をうけてか如来の説法をきかざりし。……」という元久法語又の名登山状の一文章である。

       三十三

 そうして南都北嶺の訴えは次第に止まり専修念仏の興行は無難に進んでいったようなものの、なお内心にはその流行を快しとせざる空気が至る処充満していた。
 建永元年十二月九日のこと後鳥羽院が熊野へ行幸のことがあった。その時法然のお弟子住蓮、安楽等が東山鹿の谷で別時念仏を始め、六時礼讃ということを勤めた。それは定まれる節や拍子もなく、各々哀歓悲喜の音曲をなし、珍しくもまた人
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