の親方は、いつもこの暴女王ばっかりが苦手《にがて》なのです。
なるほど、お角さんという人は、信心者は信心者に相違ないけれども、その信心たるや、あまりに広汎にして色盲に近く、その祈念たるや、あまりに現実的にして取引に近いだけのものです。それは熱田神宮へ参詣して、そっと茶店の女中に耳打ちして、「この神様は何にきく神様なの」とたずねて女中を面喰わしたことでもわかります。ドコの荒神様《こうじんさま》を信心すれば金談がまとまるとか、ドコの聖天様《しょうてんさま》は縁結びにあらたかだということは、江戸府内ならば大抵は暗記していて、おのおのその時と事件に合わせることを心得ての信心ですから、いわば神仏に信心を捧げて置いて、それからお釣を取ろうという信心なのです。そうかといって、その信心を捧げた神様仏様がお釣をくれないからと言って、それを怨《うら》むようなことは微塵《みじん》もなく、それはちょうどこの時分に、神様が御不在であったり、さらずば自分の信心の仕方に足りないところがある。己《おの》れの信心の誠意は自ら疑うことはないが、その作法に何ぞ神様仏様のお気に召さないことがあって、それでお聞入れにならない
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