から信心が届かない、こう信じているのだからかえって己れを直《なお》くすというわけで、この点では、やはり功利以上に超越した信心者の名を許して、さしつかえがないと言わなければなりません。

         二

 かくて、この三位一体は、山科から醍醐《だいご》への道を、小春日をいっぱいに浴びて、悠々閑々《ゆうゆうかんかん》と下るのであります。道は勾配《こうばい》になっているわけではないが、さながら満帆の春風を負うて、長江に柔艫《じゅうろ》をやるような気分の下に、醍醐へ下るのであります。
 お角さんは、称して、お嬢様は御信心のために醍醐へいらっしゃるのだと言う。御当人は、それを排して、わたしが醍醐へ行くのは信心のためではありませんと言いきったが、それでは信仰以外の何の目的を以て行くのか、それは言いません。さりとて、今はその時でないから、醍醐までお花見と言ってもそれは成り立ちません。単純に散歩の気分ならば、なにも特に醍醐を指定する理由もなかろうと思われるけれども、それを問いただすことをしないのが、お角さんの気象でもあり、信心者の大らかさでもあり、且つまた、この暴女王をあしらいの勘所《かんどこ
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