者でありました。
「は、吉野朝時代でございます」
 ただそれだけ答えたのみで、更に知識の先走りをしないのは、知らないのか、知っても言うことを好まないのか、それはわかりません。とにかくに、拝観人から、それだけの質問の口火を切れば、それをきっかけに、学僧によっては、滔々《とうとう》と知識を振蒔《ふりま》いて見せる、諄々《じゅんじゅん》と豪者を啓《みちび》くの態度を取ってみたりする学僧もあるのですが、この学僧には絶えてそういう好意がなく、衒《てら》う気もありませんから、お銀様はそれ以上に知識を要求するの機会を失いました。
 だが、吉野朝時代でございます、という簡単な応答に対して、お銀様をして相当の考証に耽《ふけ》らしめた余地はありました。この点は少々、不破の関守氏の与えた予備知識に不足がある、不足でなければ放漫がある、不破の関守氏は千年以上の作と言ったが、吉野朝ではまだ千年にならない。
 そこでお銀様の、年代記のうろ覚えを頭の中で繰りひろげてみると、徳川氏が二百年、織田、豊臣氏が五十年、足利氏が百有余年と見て、どのみち五六百年の星霜には過ぎまいと思いました。
 もしかして、吉野朝と言ったのが
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