、浄見原《きよみはら》の天皇の御時代とすれば、これは、たしかに千年以上になりましょうが、ここに吉野朝と言ったのは、足利氏以前の南北朝時代の吉野朝時代のことに違いないと思われるから、そうしてみると、どう考えても五六百年以前には溯《さかのぼ》らない、しかし、古い物を称して千年と言うのは、一種の口合いなのですから、それはさのみ咎《とが》めるには及ばないとして、千年を経て、その朱の色が昨日|硯《すずり》を出でたるが如しという色彩感は、さのみ誇張でも、誤算でもないということを、お銀様も認めました。
 本来は、そういう質問や、そういう認識だけで、この画像[#「画像」は底本では「面像」]を卒業してしまおうというのが無理なので、そんなことよりも、まず最初に問わなければならないことは、「大元帥明王《だいげんみょうおう》とは何ぞや」ということなのであります。これが解釈なくして、この画像を、色彩と年代だけで見ようとするのは、縁日の絵看板のあくどい泥絵だけを見て、木戸銭を払うことを忘れたのと同じようなものなのです。
 お銀様がそれをしらないということは、不幸にしてそれを知るだけの素養を与えられていないという意
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