伊勢守は頭を下げない、ただ会釈ばかりで玄関へ通った。何といっても、まだ天下の徳川の老中だ。世間では、薩摩の太守、薩摩の太守とあがめ奉るが、見受けるところ、老中に対してはあの通りだ。老中もまたあれだけの権式を保ち得られたものだが、僅かの間にそれもガタ落ち、薩摩の藩邸が江戸荒しの山賊の策源地と公認されながら、それに一指を加うることができないとは……
神尾は憤《いきどお》りを含みつつ、小酌を傾けました。
七十
さてその次の夜は、またおぼろ月の大原の里。
おぼろ月というのは、春に限ったものだが、ここ大原の里には、秋も月がおぼろに出ると、それに浮かれて二つの蝶が寂光院の塔頭《たっちゅう》から舞い出でました。
蝶というには少しとう[#「とう」に傍点]が立ち過ぎている嫌いはあるが、雌蝶であり、雄蝶であり、それが月に浮かれて庵《いおり》を立ち出でたことは間違いがありません。
「大原へ来たら、美しい尼さんでも出て来るか、そうでなければ、阿波《あわ》の局《つぼね》の後身にでも見参ができるかと、それを楽しみにして来たら、餓鬼草紙から抜け出したような婆さんが出て、因果経のおさらい
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