な、世を捨てたとは言い条、文字を弄《もてあそ》ぶようでは、まだ本物ではありませんね」
「おなぶりになってはいけません。本来、わたしは出家する気でこの姿になったのではございませんから、あなたのおっしゃる文字を弄ぶ方が本職で、お勤めは附けたりのようなものなのです」
「そうですか、いや、それはどちらでも拙者の利害にはなりませんよ。いやどうも、御馳走さまになりました、おかげさまで飢えを満たし、雨露をしのぎ、温かな一夜を恵まれ、これで生き返った心持です、この感謝の心の消えないうちに、お暇《いとま》いたしましょう」
「まあ、お待ち下さいませ、左様にお急ぎにならずともよろしいでしょう。そうして、あなたは、これからドチラへお帰りになりますの」
「左様、関の清水か――山科谷へ」
「そこへお帰りにならねばならぬ義理がおありなのですか」
「義理で帰るというわけではないのです、その辺へ落着くより仕方がないじゃありませんか、いまさら壬生《みぶ》へは行けないし、そうかといって十津川入りもできまいから」
「帰らなければならない義理がおありにならないならば、そうして、ドコにおいでになっても、お宅で皆様が御心配にならない限り、ここにおいでになってはいかがでございますか」
「それはまことに御念の入った御親切です、拙者のような浮浪人に、いつまでもここにおれとおっしゃるのですか」
「あなたの方でおさしつかえのない限り」
「夢ではないでしょうかなあ、こんな静かなところに、しばしなりとも、このうらぶれの身を休ませていただき得れば、夢にもまさる幸福なんですが、それで、あなたは後悔をなさるようなことはございませんか」
「懺悔《ざんげ》をしきった者には、後悔はないはずでございます、どうかお心置なく」
「はてな」
「何を考えていらっしゃいます、あなたは、夜具が一組しかないところへ居候《いそうろう》に来ては気の毒だと、そんなことを考えていらっしゃるのでしょう、それは御心配御無用よ――ちゃあんと融通の道はありますから」
「でも、危ないですよ」
「何があぶないものですか、あなたこそ、目も見えないくせに、足元があぶないとは、こっちから言って上げたいことなのです」
「では、お言葉に甘えましょうかな」
「そうして下さい、あなたに不自由をおさせ申しは致しません、その代り、わたしの仕事もお手つだいをして下さい」
「拙者の身で叶《かな
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