大菩薩峠
椰子林の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)逆《ぎゃく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)宇治|醍醐《だいご》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+卒」、第3水準1−15−7]
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         一

 今日の小春日和、山科の光仙林から、逆《ぎゃく》三位一体《さんみいったい》が宇治|醍醐《だいご》の方に向って、わたましがありました。逆三位一体とは何ぞ。
 信仰と、正義と、懐疑とが、袖をつらねて行くことであります。本来は、まず懐疑があって、次に正義が見出され、最後に信仰に到達するというのが順序でありますけれども、ここではそれが逆になって、懐疑が本体になって、正義と信仰とが脇侍《わきじ》であり、もしくは従者の地位しか与えられていない、というところが逆三位一体と、かりに名づけたもので、三つ一緒に歩いているから三位の観を呈するまでのこと、内心に於ては必ずしも一体でなく、また一体ならんと予期してもいない。
 信仰がまず正義を呼んで言いました、
「ねえ、友さん、しっかりしなくっちゃいけないよ」
「うん」
 ここで、まず、信仰と正義との受け渡しがありました。
 女がまず口を開いて、男がこれに応じたこと古事記の本文と変りはありません。だが、ここでは巻直しにならないで、女の方があくまで押しが強い。
「お前という人は、正直は正直なんだが、信心ごころというものがありません、人間、正直はいいけれども、正直ばかりじゃ世に立てないよ、信心だね、人間のことは神様仏様がお見通しなんだから、神様仏様を御信心をして、それからの話なんですよ、今日はお前、お嬢様が御信心ごころでおいでになるんだから」
 ここまで教訓した信仰の鼓吹者は別人ならず、江戸の両国の女軽業《おんなかるわざ》の親方、お角さんなのです。お角さんはあれで信心者だから、仮りに三位一体の信仰の一柱《ひとはしら》に見立ててみたたまでのことで、その神妙な指令の受方《うけかた》になっているのが即ち宇治山田の米友なのであります。
 宇治山田の米友は正義の権化《ごんげ》です。そこで、これを三位一体の一柱と見立てたが、信仰の申渡しに反対して、正義はあえて主張を試
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