》うことならば何なりとも」
「まあ、雨が降り出してきましたよ、これこそ本当にやらずの雨、今日は一日、あなたのお身の上話を承りましょう、お望みならば、わたしの前身……鬼でも蛇でもございませんが、お話し申し上げれば西鶴の種本になるかも知れません」
「しからば――」
侵入者は、ついに客人としてもて扱われることになりました。無制限の逗留と、無条件の寄食を許されて……
六十六
神尾主膳は、このたびの新しい使命の下に、いよいよ京都へ行くことにきめて、その暫時の名残《なご》りのような意味で、江戸の市中を一通り見て置こうと思いました。
そもそも、主膳がこのたびの使命というのは、前にしるしたように、全く無任所として、京都の鷹ヶ峰に住っておればいいということだけです。そうして遊びたいだけ遊んで、その見たところと、聞いたところと、感じたままを、江戸のある方面へ知らせればいいというだけの役目であります。つまり情報部とか、隠目附《かくしめつけ》とかいうような意味、悪く言えば一種の高等スパイのようなものらしいが、当人はそうは思いません。
まあ、昔の石川丈山という男の役どころをつとめると思えばいい。それに主膳はいささか気をよくしているのですが、この丈山は詩は作れない、歌は詠《よ》めないけれど、風流の道は心得ている、この風流というのが、御承知の通りの悪風流である分のことです。この男の使命を、なぜ石川丈山にたとえたかということは、当人にもまだよくはわからず、これに嘱する人もくわしくは説明しませんでした。スパイである、諜者である、という名よりは、詩仙堂の隠者になぞらえる方が聞きよくもあるし、当人の気持もいいというものです。
そういう意味で、しばらくはまた江戸の地を離れなければならない。長州征伐に行く軍人と違って、これは必ずしも生還を期せずという出征ではないから、これが江戸の見納めという意味にはならないが、それでも風向きの都合上、しばらくは帰れないと思わなければならない。よって神尾は、江戸の市中を一通り見学して置きたいという気になったものでしょう。
江戸に生れて、江戸を見ない人はいくらもあるものです。江戸も、本場を知って場末を知らない人もあれば、場末にいて盛り場を知らない人も、いくらもあるものであります。
神尾主膳も、祖先以来の江戸っ子でありながら、江戸というものの地
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