う、周囲などには驚きませんが、内から魔がさすのがいちばん怖いことです。あなたは、魔だと思いましたが、本当は思い違い、かわいそうなさすらい人ですから、それで大切にして上げますのよ。それはそうと、ごゆっくりお寝み下さい」
「では御免蒙りまして。飢えが満たされると睡眠の慾が昂上して来ました、もう、意地も遠慮もありません、休ませていただきます」
「さあ、どうぞ」
そこで、侵入者は、以前の蒲団《ふとん》の中へ案内されると、忽《たちま》ちに、死せるもののように眠りに落ちてしまいました。
六十五
その翌朝、昨夜の侵入者と、この庵《いおり》の主《あるじ》なる若い老尼とは、お取膳で御飯を食べました。
初茸《はつたけ》の四寸、鮭《さけ》のはらら子、生椎茸《なましいたけ》、茄子《なす》、胡麻味噌などを取りそろえて、老尼がお給仕に立つと、侵入者が言いました、
「何から何までのおもてなし、恐縮千万に存じます、それに、今になって気がつくと、昨晩、あなたはお寝みになりませんようで」
尼さんが答えて、
「はい、寝みませんでした」
「どうも、重ね重ねお気の毒なことをしたと感じています。実は昨晩、寝ませていただく時に、それと覚らないでもありませんでしたがね、一人が寝めば一人が寝めない清浄な庵室住居を犯して、お気の毒千万とは思いましたけれども、意地にも、我慢にも、眠いものでしたから、御遠慮を申し上げる礼儀のなかったことを、お詫《わ》び申し上げます」
「いやにお固いのね、一晩ぐらいあなた、寝まなくったって何ですか、おかげで昨夜はすっかり、為《な》すべき仕事を為し終えて、気がせいせいしているところです」
「ははあ、為すべき仕事とは何ですか、隠遁生活にも内職があるものですかねえ」
「ありますとも、長い間の書物の校合を、昨晩すっかり済ませてしまいました」
「書物の校合――では、あなたは女学者なのですね」
「女学者はいいわね」
「でも、書物の校合などは、相当の学力がなければ出来ることではないでしょう。いったい、何の書物ですか」
「平家物語」
「平家物語をね――平家物語の校合を、ここで一人でなすっていらっしゃるのですか」
「はい、静かでよろしうござんすからね、それにところがところでしょう、気が乗りましてね、どうかすると自分までが書物の中の人となってしまいます」
「それは風流な御生活です
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