宵の間にほどよく敷いて置いた夜具の中に、誰かが寝ている。
 枕許には大小が置いて、その上に黒い頭巾が投げ出してある。そこで若い老尼は全く立ちすくみました。もう、あっという言葉も出ません。
 ところが、この奇怪きわまる侵入者は、苦しそうな声を出して、
「御免下さい、あんまり疲れましたから、それに恥かしながら飢えに堪え兼ねて……」
と言いました。
「え、何でございますか」
 無意識に若い老尼が言葉を返しますと、
「お腹がすいたのです」
 こいつ、あの餓鬼草紙の二の舞をやっている。餓鬼草紙から脱け出した老婆は、大釜を背負い込んでいたが、この餓鬼は釜の代りに大小を持っている。
「それは、お困りでございましょうがなあ」
「疲れはしたし、お腹はすいたし」
 どうも、さもしい。お腹がすいた、お腹がすいたと、あまり繰返さないがよろしい。武士は食わねど高楊枝とも言い、腹がへってもひもじうないと言う。それだのに……
 この物騒な侵入者は、物騒なわりに気が弱過ぎる。
 作り声ではない、ほんとうに疲れきってもいるし、飢えきってもいるし、或いは疲労以上の、飢餓以上の、瀕死《ひんし》の境にいるのではないかとさえ見られるのですから、老尼にも一点、憐憫《れんびん》の心が起ってみると、恐怖心の大半が逃げました。その逃げたあとへ、若干の勇気というものが取戻されたものですから、やや本心にも返ったし、本来、こうして、この年で、水気《みずけ》たっぷりな侘住居《わびずまい》をしているくらいですから、心臓の方も、さのみ老いてはいなかったのでしょう。
「それはお気の毒な、まあ、ちょっとお起きあそばせ、おぶ漬を一つ差上げましょう、何ぞ粗末な有合せで」
「そうですか、それはかたじけないです、では、御免を蒙って」
と、寝ていた弱気の侵入者は起き直りましたが、ほんとうにこれはこの世の人ではない、病みほうけ、疲れきって、その様、全く哀れげに見えるものですから、老尼はいよいよ気になりました。
 侵入者は、起き直ったとはいうものの、立って挨拶をしようではありません。蒲団《ふとん》の上に突伏《つっぷ》すように坐り込んだなりで、物を考えているよりは、哀れみを乞うているに似たこの姿がいじらしい。
 侵入者をいじらしがるわけもないものだが、老尼は、もうこっちのものだと思いました。傷ついた虎は吠える犬にもかなわない、という見極めがすっか
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