くこの六道能化まで来たのに、あとはめちゃめちゃ、ここでブリ返して、こんなに魔がさすようではならない。
 老尼は、われと気を鎮めてみたが、魔障わが精進をさまたぐるか、と言って躍起となる意気もないようであります。というのは、この老尼は修行のために、ここに静処を求めたのではなく、狂言綺語《きょうげんきご》の閑居を楽しまんとする人であったからでしょう。様こそ法体にこしらえてはいるが、これも仏道精進のためというよりは、世間体をのがるるには、この様が最も許されやすいという身勝手から出でたもので、要するに趣味の人であって、修道の人でないからでしょう。五十路《いそじ》を越えて、まだこんなに水々しいところが何よりの証拠で、都にあって祇園精舎《ぎおんしょうじゃ》の鐘の声を聞くよりは、ここに閑居して沙羅双樹《さらそうじゅ》の花の色の衰えざるを見ていたい。
 そういう未練な仇《あだ》し心が、この場で、内外から魔の乗ずる隙を与えた、いわば自分の造りおけるわなに、自分がかかっておびえるようなものです。
 でも、外からさした魔は、それっきりで、あとは音沙汰《おとさた》がありません。周囲を見廻す。秋草の中に何者かがおりそうな気持は変らないが、そうかといって、外からねらわれる心配さえ解ければ、内からさして来る魔の手は、いくらでも取消しの道はつくというものです。なんにしても、今晩はめちゃめちゃ、いやいや、昨晩もあの時間からめちゃめちゃでした。花尻の森から人魂《ひとだま》が飛んだというあの噂を聞いて、それからいい心持はしなかった、あれを、知らず識《し》らず今晩まで持越したもの、こんな晩には早寝に限ると気がついたが、いま寝についても早寝にはならぬ。とにかく、さんざんの体で、この場の校合はあきらめ、あとの補修は明日のこと――
 そう思って、書斎の次の間は寝間、そこにしつらえてある夜のものに埋もれて、今日の厄落《やくおと》しを終ろうと、すらりと立って、片手には丸形の行燈《あんどん》を携え、秋草の襖へ手をかけると、なんとなく心が戦《おのの》く、その気持を取直して、これもスラリと襖をひらき、誰に憚《はばか》ることもない己《おの》が独自の世界の中に、一足踏み入れると……
「おや」
と言って、その取落そうとした行燈を投げ込むようにつきつけると、侵入すべからざるところに侵入者があって、自分の寝間の中に、しかも、こちらが
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