「うむ、上方だ、今は江戸の舞台が、あっちへ移っているのだから景気は素敵だ、それに江戸と違って、千年の都だからなあ、見るもの聞くもの花の都だ」
「上方見物――ようござんすねえ、お恥かしながら、わたし、この年になって、まだ京都を存じません」
「そうだったかなあ、親爺《おやじ》の代に行って置けばよかった、惜しいことをしたねえ」
「行くつもりなら、いつでも行けると思って安心しているうちに――年をとってしまいましたのよ」
「いや、これから一花《ひとはな》と言いたいところだろう、どうだい、思いきって、花の都住居をしてみる気はないか」
「ないどころじゃありません、大有り名古屋のもっと先なんでしょう。いったい、何でそんなに急に京都風が吹き出して来たんでしょうね」
「まあ聞け、こういうわけなんだ、どの方面と名は言わないが、このおれにひとつ京都へ出張《でば》ってみないかという話が持ちかけられたんだよ。気の早い話だ、今日という今日の日に、人もあろうにこの神尾を見込んで、ひとつ京都へ乗込んで、一遊び遊んで来ちゃどうだという、甘い口がかかったんだ」
「まあ、それはどうした御縁なんでしょうねえ、また悪友にそそのかされておいでになったんじゃなくって?」
「いいや、これも悪友ではない、第一、悪友どもにこの神尾を見立てて京都へ行けというほどの実力ある奴がいるか。京都へ行けば、当分、遊びたいだけの遊びをしていいという軍費が出る、何一つ不足をさせない、その上に、仕事といってはただ遊んでいさえすればいいというのだから、神尾主膳あたりには打ってつけの役廻りだ」
「今時、そんな茶人があるものですかねえ、ほかならぬあなたをお見立てして、京都で思うさま遊ばせて上げようなんて、そんな有り余るお宝の持主がありますかねえ」
「それが有るのだ、有るべき道理あって有るのだから、やましいことがなく、しかも遊んでさえいれば、それが立派な御奉公になろうというのだから、まず近ごろ、これ以上の耳よりな話はないさ」
「そんなら、あなた、お考えになるまでもなく、早速お受けになればよいに」
「いや、それも一人じゃいやだよ、誰か面倒を見てくれる人が附いていてくれなくちゃあな、神尾もそうそう、若い時の神尾じゃないから、花の都へ上ったからとて、そう無茶な遊びもやれない、誰かついて行ってくれればいいがと考えたから、お受けもせずに戻って来た、家に
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