待っている人があるとは言わないが、心当りへ当ってみてから挨拶をする、と言って帰って来たのは別儀ではない、私の姉さん、お前、一緒に京都へ行ってくれるかね、お前が行ってくれれば、これも一期《いちご》の奉公だと心得て、おれは京都へ乗込むよ」
「参りましょう、あなたのおともをして、京都へ参りましょう」
「いいかい、ただの京都見物じゃないよ、次第によると永住の形式になるかも知れないぜ、よく考えて返事をしてくれ」
「考えれば、条件も出て参りましょうから、考えないでお返事を致しましょう、あなたが、わたしのために家へ帰って来て下さるようになったお礼心で、わたしはあなたのいらっしゃるところならば、海の中でも、山の奥でも」
「本気かい、本気でそれを言ってくれるのかい」
「あなた、このわたしの心意気がおわかりになりませんの」
「わかる、わかる、では、おれは明日にもまた折返して、京都行きを承知して来るよ、いいかい?」
「御念には及びませぬ、今日からでも、おともを致します」
「よし、話はきまった」
と言って神尾主膳は、出陣の前ぶれのように勇み立ちました。

         四十一

 それから、神尾が突込んだ打明け話をして言うことには――
 今度の京都行きの話は、どこから出たかその出所はわからない。またわかっても、それは誰にも言えないが、だいたいに於て、こういうことになっている――
 相当の体面を保つだけの手当は、それはもとより充分に出る、その上に交際費はつかい放題とは言わないが、機密によってはかなり潤沢に許される、誰が今時、何のためにそんな無用な金を出して、無用な人を遊ばせるかと言えば、遊んでいながら、京都の内外の様子をすっかり偵察して、それを時に応じて、こっちへ知らせる役目だ、表面の辞令をいただかないお目附《めつけ》だ、悪く言えば間諜《かんちょう》、ペロで言えばスパイというやつかも知れないが、決して下等な仕事じゃない、柳生但馬もやれば、石川丈山もやった仕事なんだ、徳川家のために、公卿と西国の大名どもの監視をしていようというのだ、その役廻りにこの神尾を見立てたのは、誰とは言えないが、見立てた奴も、見立てられた奴も、まず相当なもんだろう、そこで、話はいよいよ早い、なんでも京都の北の方に鷹ヶ峰というところがある、そこに「光悦寺」という小さな山寺があって、その昔、本阿弥光悦という物ずきが住んで
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