変したよ、勝や小栗のことは知らないが、まあ、あいつらに勝るとも劣るものではあるまい、あれだけの奴がこっちにいれば、よし江戸の城は明け渡しても、上野の山で持ちこたえる、あいつが軍師で、輪王寺の錦の御旗を押立てて起《た》てば、徳川の旗下が挙《こぞ》って上野へ集まる、本来、ここまで来ないうちに、もっと早く、こちらから積極的に上方へ乗出したかったんだ、あんな坊主を上方へ向けて置いて、あっちで策戦をすれば、今時、こんなに後手《ごて》を食わずに済んだものだろう、そこは、あの坊主も、内心残念がっているようだが、なんにしても、あの坊主を坊主で置くは惜しい」
「そんなにエライお方を、坊主坊主と呼捨てになさって罰《ばち》が当りはしませんか、何という御出家様でございましたかねえ」
「輪王寺の執当職で覚王院義観というのだ、学問があって、胆力があって、気象が天下を呑んでいる、会ってみなけりゃあ、あいつのエラさはわからん、山岡鉄太郎や、松岡万あたりも、あれの前へ出ると子供のようなものだそうだ」
「お山にも、そんなエライ坊さんがいらっしっては頼もしいことでございますね」
「そうだ、義観のほかに、竜王院の堯忍、竹林坊の光映などというところは、覚王院とは異った長所を持つエラ物《ぶつ》だという噂だが、とにかく、覚王院一人に逢っただけでも意を強うするに足るものだ」
神尾主膳は、よほど覚王院義観に参らされて来たようで、口を極めて感歎の舌を捲くが、お絹はバツを合わせるだけで、人物論などには興味を持ちません。そこで、神尾は覚王院礼讃はいいかげんに切上げて、さて声を落して言うことには――
四十
「時に、話は別になるが、ここに、ちょっと耳寄りな、聞いて甘いような辛いような口が一つあるのだが、お前、乗ってみる気はないか、お前が乗れば、わしも乗る」
と調子が変ったものですから、お絹も人物論よりは乗り気になり、
「甘い口なら、いつでも乗りましょう、おっしゃってごらんあそばせ、あなたが甘いとお思いになっても、わたしには辛いかも知れません」
「話は至極甘いのだ、いわば葱《ねぎ》に鴨という調子に出て来ているのだが、さて、それに乗るということになると、相当の決心が要るよ」
「まあ、おっしゃってみてごらんあそばせ」
「実はな、ひとつ、京都へ行く気にならないか、お前が行く気なら、おれも行くよ」
「京都へ?」
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