るものがありましたけれども、それを何でもないことに解釈するのは、七兵衛入道ひとりだけに過ぎません。
三十四
神尾主膳は、上野へ行って輪王寺の門跡について、覚王院の義観僧都《ぎかんそうず》を訪ねましたけれど、その日は面会ができませんでした。
それでも、ひるまずに竜王院の執当をたずねてみたが、それもおりから不在とのことです。
そこで、憤然として山を蹴って出づべきだが、今日の主膳は、左様な侮辱にひるまないで、更に、輪王寺の重役、鈴木安芸守《すずきあきのかみ》をたずねて、ここでは意外の珍客としてもてなされたものだから、いくらか溜飲を下げて、そこで、久しぶりに安芸守信博と対面をしました。
本来、今の神尾の身で、供もつれずに、覚王院や竜王院を突然に訪ねてみたところで、猊下《げいか》へ通すまでもなく、玄関子がよろしく取計らってしまうことは、わかりきったことで、神尾主膳としても、その辺の常識は無ければならないのですが、いささか覚悟の前であったのでしょう、そこで山に於ては、前二者に次ぐ役人としての有力者、鈴木安芸守にぶっつかると、直ちに諒解《りょうかい》されたのみか、意外の珍客としてもてなされる気色さえあったものですから、神尾も、こうなければならないと、昔の自尊をいささか取戻したらしい。それも、一つは安芸守自身が居合わせて、取次から、珍しくも神尾の名のりを聞いたものですから、それでこの良会があったもので、さもなくば、やはり玄関子の取計らいを蒙《こうむ》ったに違いないと思われる。
今の神尾は、人に訪ねられる身分でなく、ましてや人を訪ぬる身でない。悪友以外にまじめに訪問を試みたということは、甲府勤番の役向を別としては、何年にも絶無のことでありました。
それでも覚王院に於ても、竜王院に於ても、あえて癇癪《かんしゃく》を破裂させなかったというものは、本来、今日は私心あっての訪問ではない、いささか誠意あっての義勇心(?)といったものから出でたのですから、私の侮辱に平然として屈せぬ面の皮がありました。
役の出先、裃《かみしも》をつけたままで鈴木安芸守が、神尾主膳に対面して、
「これはこれは神尾主膳殿、珍しいことではござらぬか」
「いや、津の国の、何を申すもお恥かしい次第だが、今日、かくの通りにぶしつけに推参いたしたのは」
先以《まずもっ》て、財物の無心に参っ
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