たのではござらぬという安心を、先方に与えなければならないほど、神尾の立場は気が引ける。
「その後、お噂《うわさ》を承るのみで、一向に御消息を存ぜぬことでしたが、御無事で何よりめでたい、どちらにお住いでござるか」
安芸守の言うところには温か味がある、それが何かしら神尾を和《やわ》らかにするものがありました。この安芸守は年配に於て、十も主膳の先輩ではあるが、旗本としての門地は、今は知らないが、以前は遥かに神尾より下でした。今の神尾としては、誰ひとり振向くものもなし、振向くものの面《かお》は冷たいと思って、僻《ひが》むところを、こういうふうに温かに取扱われると、悪い気持はしない。まして、たった今、覚王院や竜王院で、お取計らいを食って出て来たその余勢ですから、神尾もここで、故旧になぐさめられるような温かな味、近来受けたことのないものを受けました。
「いや、ドコにいると名乗るほどの安定はない、刑余の亡命者でござるがな、今日は、どういうものか、虫の居所が少し違っていると見えて、じゃんじゃんの鐘を聞くと、急に上野の地が恋しくなったようなわけで、山へ登ってみましたよ。とりあえず、竜王院と覚王院をたずねてみたが、見事な門前払い、なるほど、今の神尾ではかくもあらんかと腹も立たなかった、今日という日は、妙に虫の居所が辛抱強い、それにも屈せずして御門を叩いてみると、ここの御門前は極めてすべりがよろしい、かくばかり滑《なめ》らかに通されて、温かいお言葉に接することは、神尾の身にとって、近ごろ絶えて無いこと、よろこばしう存ずる。ただし、好意に甘えて、御多用の時間を長くおさまたげすべきではないから、手っとり早く申し述べたいが、いったい、今の徳川の天下は、どうなっているのでござる、これから先々、どうなるというのでござる、それを、一言、お洩《もら》しが願いたいのじゃ」
神尾としては、今日はまた舌も存外滑らかで、情理明晰《じょうりめいせき》にすらすらと述べました。
「何かと思えば、改まった御質問、さもありなん御心底もお察し申すが、なにしろ、そのことは重にして大、なかなかここで寸秒の座談に尽すというわけには参らぬ、拙者も門跡へ出仕の身でござるによって、ただいま打寛《うちくつろ》いで物語りを致す時間を持ち合わさぬ故に――それではこう致そう、貴殿の、その発心を、拙者はここで冷ますことを致したくない、よっ
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