を廃業している、こうして涯《かぎ》り知られぬ海上をうろつく、これが本当の浪人じゃ、浪人という字は浪という字を書く、陸上にさまようているのは、あれは浪人ではなく、牢人と、人を囚《とら》える牢という字を書いたものもあるが、海上から見ると、陸にいる人は牢にいる人と同じかも知れない、陸にいてはいくら自儘《わがまま》だといっても窮屈じゃ、限度という格子に必ず突き当るが、そこへ行くと、海上は無制限だ、海上には、海上の自由があるな、たしかに。だから海上に漂う身になってみないと、真の浪人の味はわからぬものだ、つらいことも無制限だが、楽しいことも無制限だ。人間として、人間の制限を受けるのはいやなものだな、お松さん、そうは思いませんか」
「それはおっしゃる通りでございます、陸にいると、海にいるとでは、人間の気象が自然に違って参ります」
「制限のなき世界、制限なくしておのずから節度のある世界、節度を人から強《し》いられず、自ら楽しんで傲《おご》ることなき、そういう世界が望みで、わたしはこの船の旅に出ました、わたしはもう人の上に立つことはしない、人の下に忍ぶこともしない、お松さん、君が、もしまた、このわたしを主人と思い、己《おの》れの立場を家来と思っているとしたら、それはおたがいの誤解であるばかりでなく、おたがいの不幸です、この道理が、あなたにはよくおわかりのはずです」
「毎々《つねづね》、そのように承っておりますが、それは道理だけのものでございます、誰ひとり、あなた様を、自分の同輩だと思うものがございましょう、思おうとしても思われません、それだけに備わるものがございますから。それだけ企て及ばないものがあるのでございますから」
「おたがいに身を以て解釈しなければならない、昔のままの頭を以て、今の生活をしようというは無理ですよ、わたしたちが千辛万苦をしてなりとも、異境の土になりたいというのは、今までの生活がいやだからです、その生活を土台から築き直すためには、歴史と、習慣と、恩義というようなものを負うている国では、それができないから、わざわざこうして、天涯に土を求めているのに、昔のような頭で、昔のような生活に帰るつもりなら、おおよそそれは無意義なのです、その様式をすっかり打ち直すと共に、その心持を全く入れ替えなければならない。船のうちでは、そうしようとしても許されないものがありました、こうして
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