て不快なりとはしていないようです。
 かくて、二人は椰子の木蔭を、かの新館なりと覚ゆる方面に向って、無言で歩きました。それは主従相伴うて歩むのでなく、二個の人間が相携えて行くもののようです。
 椰子の林をわけて行くといっても、それは熟地に見るような簡単なものではないのです。蛮地ではないけれども、多年の無人島ですから、たとえ隣から隣へ行くにしても、道というものはないところなのです。そこへ、心あたりだけの道をつけて進むというよりほかに、進む道はないのです。自分たちの住む新館は、たしかあちらの方と、漫然とした道方角を選んで歩いても、それがそのままに通り抜けられるかどうかはわかりません。
 で、二人は、方向の目的はきまっているが、その径路のことは忘れているようでありました。
 無言で、ずんずん歩み行くこと、そのことだけに気が張りきって、到着の時と、ところと、そんなことは忘れてしまったのではないか。

         二十八

「お松さん、わたしはここで、一つ、あなたを驚かすことを言ってみたい」
と、ある地点へ来て、駒井は足をとどめて、椰子の大木の一つに身を釘附けにしたようによりかかって、こう言いかけられたお松は、全身の鼓動を覚えたけれども、それでも度を失うようなことはなく、むしろ、待っていましたというような大胆な心をもって、駒井の前に立ちはだかりました。立ちはだかったというのは、不作法千万な振舞でありますけれど、お松としては、それほど大胆になり得た気分を、自分ながら誇りたい心持で、
「何を仰せられましても、驚きは致しませぬ」
「本来は、驚かすつもりもなく、驚くべき何事もないのですが、少しもわたしを知らない人は、狂気の沙汰《さた》と思うかも知れません」
「殿様、あなたはわたしの唯一の御主人様でござります、御主人から仰せを蒙《こうむ》って、それで驚く家来はございません、この場で命を取るぞと仰せられましても、それに驚くような家来は、家来でございません」
「いいえ、そなたは、わたしの家来ではない、わたしはもう疾《と》うの昔に、人の主人たる地位をのがれた、同時にただ一人の人をも家来とし、奴隷とするような僭上《せんじょう》を捨てた、わたしを殿様呼ばわりするは、それは昔からの口癖が、習慣上から廃《すた》らないのだから、急に咎《とが》めようとも思わないが、本来、わたしはもう疾うに昔の殿様
前へ 次へ
全193ページ中66ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング