人島だ、環境の事情からも、自衛の本能からもだな、前後左右に敏感に神経が働くからな、注意すまいと思うても、物影の有る方に注意は向くよ、植物と人間とを見誤るほどに、わしは酔うてはいないのだ」
その返答を聞いて、なるほど、夢のように、そぞろ歩きをしながらも、人をあずかる身になると、油断というものはあり得ない、という心のたしなみをお松がさとりました。男子は外へ出れば七人の敵がある、という諺《ことわざ》なども思い当るし、何の苦もなかりげに見える人に、かえって断えざるの苦があるというような同情を思い出でました。
「あまり夜露に打たれてはお毒でございましょうから、お館《やかた》へお帰りあそばせ、あの人たちは、あのまま、あの人たちにお任せになった方が功徳にもなるでございましょうから、このままお帰りあそばしてはいかがでござります、わたくしがお供を致します」
とお松が言い出でたのを、駒井は素直に受入れました。
「なるほど、それもそうですね、夜露が毒とも思わんけれども、帰って、仕残しの仕事もある、そなたの言う通り、だまってこのまま引上げた方が、多数の興をさまたげないで済むというものだ。では、一緒に帰るとしましょう」
「そうあそばしませ」
駒井はお松を伴うて、椰子の林の木蔭を、新館への帰途につきました。
その時に、お松は、なんとも精一杯に自分の胸が躍動するような心持になりました。
この主人を、送り迎えに立ったことはこれまで幾度、室を共にし、事を共にし、職務以外には何の雑念もなかった身が、今宵は躍《おど》る心が怪しくも狂います。
お松としては、今までにほとんど感じたところのないほどの、強い充実味にぐんぐんと引きしめられる。ただ何とはなしに生甲斐《いきがい》があるというような心持、女としての充実した喜びが海の潮のように迫るを感ぜずにはいられません。今までは、いつも神妙に、後ろに従って主従の謙遜を忘れなかった身が、今晩はぐんぐん押しきって、この人と並んで語りたい、押並んで歩きながら、思う存分に話したい、という気分に満ち溢《あふ》れていました。
駒井甚三郎もまた、踏む足がおだやかではありません。思いなしか、その白い頬の色が、木《こ》の間《ま》の月に輝いて、この人としては滅多に見ることのできない血の気を湧かせているやに見えないこともありません。お松の思い上った、不遜に近い歩みぶりを、決し
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