人が二人ながらどういう径路をたどって、ここまで歩いて来たかということには、なお多大な問題が残されていると見なければなりません。
 よって念のために、大菩薩峠の「農奴の巻」までさかのぼって、それを検討してみますと、弁信法師は、長浜から竹生島《ちくぶじま》へ渡って、一世一代の琵琶を奉納せんと志したが、どう間違ってか、竹生島ならぬ多景島《たけじま》(竹島)に漂着してしまいました。
 弁信法師が、有縁則住《うえんそくじゅ》と抜からぬ面《かお》で多景島に納まり返っているところへ、農奴として処刑せらるべかりし米友が、両士に救われてそこへ身をかくすことになった――という因縁がある。そこまでは書物によって証明ができるが、では、この二人が、いつのまにどうして、あの島を抜け出して、この道へかかったか、それは誰も知った者がない。が、それをいちいち説明していると話が長い。しかし、トニカク、唐《から》天竺《てんじく》へ転生《てんしょう》したわけではない。多景島からは直径にしても、僅か十五里以内のこの地点を歩んでいるのだから、有り得ざることではないし、有り得べからざることでもありません。弁信の肩から生活のたつきの
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