だが、本人|杳《よう》として行方知れず、そのうちふと、この院内に、それらしい女の隠れ姿を見たと言い触らした奴があったが、それもなんらつかまえどころのない蔭口――ところが、現在ただいま、この拙者というものが確実にその正体を掴《つか》んでしまった! 嗚呼《ああ》、これぞ由なきものを見てしまったわい! あんなのは見ない方がよかった! 春信《はるのぶ》の浮世絵から抜け出したその姿をよ、まさに時の不祥! 七里《しちり》けっぱい!」
この男の一面は、意気だの情だのと言っては、溺れ易《やす》い感激性が多分に備えられていると見える。それが今晩、ことさらに昂奮と激情のみ打ちつづく晩だ。
かくの如く、斎藤一が昂奮につぐに昂奮を以てするにかかわらず、机竜之助は冷洒《れいしゃ》につづく冷洒を以てして、いちいち、その言うところを受けている。
つい近いところの知恩院の鐘が鳴りました。幾つの時を報じたのか、時の観念を喪失してしまっているこの二人にはわからないが、どのみち、もう夜明けに近かろう。夜が明けてはじめて寝に就くというようなことになりました。
果してその翌日、机竜之助が目ざめたのは正午に近い時で、気が
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