を見給え、迷うよ、仏でも迷うのは無理がないなあ」
 斎藤一が、二たび、三たび浩歎して、続いて物語るよう、
「君、実際あの女は、仏を迷わした女なんだが、いいか、まあ、さしさわりのないその辺の京都名代の大寺の住職に毒水禅師というのがあったと思い給え、これは近代の名宗匠《めいしゅうしょう》で、会下《えげ》に掛錫《かしゃく》する幾万の雲衲《うんのう》を猫の子扱い、機鋒|辛辣《しんらつ》にして行持《ぎょうじ》綿密、その門下には天下知名の豪傑が群がって来る、その大和尚がとうとう君、あの女にやられてしまったんだぜ」
「いったい何者なのだ、処女か、玄人《くろうと》か、商売人か――」
「何者でもない、単にその寺の門番の娘に過ぎないのだ。門番といっても、もとはしかるべきさむらいなんだそうだ。ところで、その毒水禅師というのが、修行者の間には悪辣なる大羅漢だが、一般の善男善女の前には生仏《いきぼとけ》と渇仰される生仏だから、仏の一種に相違あるまい、その仏を迷わせて地獄に堕《おと》したのが、今のあの手弱女《たおやめ》だ。と言えば、今の女が相当の妖婦ででもあって、手腕《てくだ》にかけて禅師を迷わしたものでもあるか
前へ 次へ
全402ページ中160ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング