からしくて出来るものではない、ただ人間並みを廃業して、ここまで来る試験地獄がつらい、ここへ来てしまえば、何という清浄にして広大なる天地だろう」
「まあ、あんまり惜しいから、そう川渡り急ぐなよ、ゆっくり月をながめながら川を渡ろうではないか、この良夜をいかんせんというところだ」
「月は天にあり、水は川にあり、いい心持だ」
 名は高いけれども、鴨川は大河ではない。ちょろちょろ水を渡る程度の川渡りも、今晩は無下《むげ》に渡りきるのが惜しくてたまらないらしい。そこで、中流というとすばらしいが、飛べば一ハネの川の真中で、わざと二人は歩みを止めてしまい、空の大月を打仰いで、
「清風明月一銭の買うを須《もち》いず――と、たぶん李白の詩にあったけな、一銭のお手の中を頂くにも、人間となると浅ましい思いをするが、この良夜を無代価に恵与する天然の贅沢《ぜいたく》はすばらしいものだ」
「その天然の贅沢を、無条件で受入れ得る我々の贅沢さは、また格別だなあ、事実、乞食にならんと、本当の贅沢はできんものだなあ」
「そうよ、うんと欲張って我が物にしたければ、袋を空にして置くに限るよ、物があると誰も入れてくれねえ、天下将
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