る。
「いい心持だなあ、月夜の川渡り」
「ほんとにいい心持だよう、月夜の布袋《ほてい》の川渡り」
「月夜に釜を抜かれるということがあるが、その解釈を知っているか」
「知らん――いろはガルタには、わかったようでわからんのが幾つもある、我々いい年をしながら、いろは[#「いろは」に傍点]さえ充分にはわかっとらん」
「況《いわ》んや天下国家のことや」
「なんにしても、月夜の布袋の川渡りはいい」
 しきりにこの二人が布袋の川渡り、布袋の川渡りということを口にしているのは、自分たちが菰を被《かぶ》っている頭の上に、身上道具の一切合財《いっさいがっさい》をいただいているからであろうとは思われる。身上道具の一切合財といっても、鍋釜で尽きているらしい。鍋釜を所有していれば、中に入れるものは、今日は今日、明日は明日で、絶対他力まかせになっているところに彼等の身上がある。そこで、月夜に釜を抜かれるという「いろはガルタ」が不意に飛び出したのも、つまり、頭上にいただく鍋釜から起った聯想らしい。
「乞食を三日すれば忘れられん――というが、まさに正真の体験だ」
「そうだ、この趣味がわかると全く、人間並み生活などはば
前へ 次へ
全402ページ中132ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング