みましたが、この時、提灯は抛り出してしまって、懐ろへ手を差し入れたのは、火打道具を取り出さんがためではありません――一張の捕縄《とりなわ》です。
 その時の源松の気勢は、変っておりました。職務の遂行のためには死をだも辞せずという、一種の張りきった気合が充ち満ちたかと見ると、件《くだん》の長身覆面の客から物の三間ばかり離れて、橋板の上へ飛びのいて、足踏み締めて、身を沈めて、捕縄の一端を口に銜《くわ》えて、見得《みえ》をきってしごいたのは、かの長浜の一夜で、米友に向って施したのとまさに同じ仕草です。
 だが、今晩のは、捕手の中心がよく定まらないようです。ここで、自分の送り狼を捕ろうとするのか、或いはまた、一旦は天下御免の遊民と見て安心した下流の川渡りに、再吟味するまでもなく、なんらかの不安を感じたために、それを捕りに行くための身構えか、二つの目標が同時に現われたものですから、源松の着眼が乱視的で、これだけの仕草ではよくわからないのです。
 だが、送られて来た覆面の遊客は、こころもち移動して、橋の欄干を背後にしたことによって、この気合を感得したものらしい。ただ、それだけで、柄に手をかけるので
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