名に相違ない。有名といったからとて、この冊子に於ての相当の有名だけであって、ここで、フリの客に、轟の源松と名乗りかけたからとても、誰でもそれと知っている名前ではない。
「ナニ、目明しの文吉――というのがお前の名か」
と、前なる黒頭巾が聞き耳を立てて、駄目を押すと、
「いいえ、目あかしの文吉じゃございません、轟の源松と申しまして、渡り者のケチな野郎でございます」
「ははあ、轟の源松」
 その名を繰返しながら、二人は見た目には主従の形で、すれつもつれつ前へと歩みます。

         三十

 轟の源松なるものは、手の利《き》いた岡っ引である。江州長浜の夜で、宇治山田の米友を相手に、あれほどの活劇を見せたが、本来、この辺の地廻りではない。特に天下の老中差廻しで、お膝元の大江戸から派遣せられたものであってみれば、草津や長浜の町が、その腕の見せ場ではないはず。米友やがんりき[#「がんりき」に傍点]だけが当の相手ではあるまい。あれらは、ほんの道中の道草の小手調べ。されば、あれから農奴が膳所藩《ぜぜはん》の曝し場から、なんらかの手によって奪われて行方不明になったにしてからが、また、その曝しの現
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