に価する。本文通り、乙者から言説のきっかけを投げられたが最後、「明るい晩と申しましても、夜は夜でございます、人の世そのものが、無明長夜の眠りでございまして、迷途覚路夢中行と、道元禅師も仰せになりました……」なんぞときめ出されようものならば、富楼郷《フルナ》といえども辟易《へきえき》する。それを今晩に限って更にせずして、ただ「はい」だけで納まるというのが、甚《はなは》だ異例を極めているのであります。
それにも拘らず、米友は重ねて言いました、
「弁信さん、おいらは京都を見るのは、はじめてなんだぜ」
「はい」
「おいらは伊勢者で、上方《かみがた》へは近いところの生れなんだが、かけ違って、江戸の方を先に見ちまったんでな」
「はい」
「東海道を下る時は一人だったんだ、駿河《するが》の国から連れが出来たにゃあ出来たけれども、それまでは一人ぽっちよ、東海道の目ぬきのところはみんな一人で歩いてらあな」
「はい」
「それからお前、一度、甲州という山国へ入り込んで、あすこの生活を少し味わったよ」
「はい」
「それから、また江戸へ帰ると今度は、道庵先生のおともをしてこっちへ来ることになったんだ、来る時は東海道を来たけれど、帰る時は木曾街道というわけなんだ」
「はい」
「お前も知ってるだろう、あの先生は世話の焼ける先生とっちゃあ」
「はい」
「それがまた、近江の胆吹山というところから道庵先生と離れて――おいらはお銀様のお附になったんだ」
「はい」
「そのまたお銀様というあまっこ[#「あまっこ」に傍点]が、イヤに権式の高えあまっ子[#「あまっ子」に傍点]でな」
「はい」
「道庵先生は、親方のお角さんとおいらとを乗換えて、別々に上方行きということになったんだが、おいらは弁信さん、お前と一緒に都入りをしようとは思わなかったよ」
「はい」
何を言っても、はいはいだから、米友が少しお冠《かんむり》を曲げ出しました。何を言っても、はいはい聞いてくれることは有難いようなものだが、こういちいち、はいはいでは、ばかにされているように思われる。せっかく自分が好意ずくで話しかけるのを、上《うわ》の空《そら》で聞き流して、眼中にも、脳裏にも、置いていないようにも取れる。まして平常《ふだん》、そういう無口な人柄ならばそれでも済むけれども、平常が平常、人が一口言えば二口の返し言ではない、千言万語が口を衝《つ》いて出でるお喋り坊主から、今晩に限ってこんなにあしらわれると、米友もいい心持がしない。そこで、今度は少し語調が荒っぽくなりかけて、
「弁信さん、何と言ってもはいはいでは、あんまり気がねえじゃねえか、ちったあ[#「ちったあ」に傍点]張合いのある返事でもしな」
「そういうわけではありませんのです、米友さん、悪くなく思って下さいな」
四
「お前《めえ》のことだから悪かあ思わねえがね、話しかけた方の身になってみると、はいはいだけじゃあつまらねえこと夥《おびただ》しいや」
「では、米友さん、お話し相手になって上げますから、もっとお話しなさいな」
改まってそう言われると、さて何から話し出していいか、米友が少しテレる。
米友が少しテレたので、弁信が仕手役《してやく》に廻りました。
「米友さん、私は今、考え事をしていたところなんです」
「何を考えていたんだ」
「いろいろのことを」
「いろいろのことと言えば……」
「それは世間のことと、出世間のことと――人間並みに申しますると、眼で見える世界のことと、眼で見えない世界のこととを考えておりました、人間並みではこれが二つになりますが、私にとっては一つなのです、私の眼には一切が見えない世界のみでございまして、見るべき世界がございません、ですから一つです、見える世界、見えない世界と、事わけをするのは、人間並みに五体整っている人のすることでありますから、私は仮りに世間のこと、出世間のことを二つに分けて申してみました」
さあ、むつかしくなり出した。これからの饒舌《じょうぜつ》の洪水が思いやられる! だが、これは頼まれもせぬに引出した米友に責めがある。せっかく沈黙の世界におとなしくしているものを、返事がなくては張合いがないのなんのと誘発した米友に、充分の責めがあるのであります。いわば眠っている獅子《しし》の口髯《くちひげ》を引いたようなもの、百千万キロワットの水力のスイッチをひねったようなものですから、今後の奔流は、米友御本人が身を以て防護に当るよりほか、受け方はありますまい。
だが、こちらもさるもの、一向にひるまない。
「二つにでも、三つにでも、わけて見ねえな」
世間とは何で、出世間とは何だと、野暮な追究を試みるようなことをしないで、三つにでも、四つにでも、千万無量にでも、分けられるものなら分けてみねえなという度量を示
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