)の法然頭《ほうねんあたま》を振り立てるためには、素《す》であった方が見栄《みば》えがする。脱いで高紐にかけ――と言ったような、実用とダテ[#「ダテ」に傍点]の事情に制せられたのかも知れないが、今日の弁信は網代《あじろ》の笠をかぶっている。同時に、背中から頭高にかかった、雨と露と埃《ほこり》で汚れた、あやめもわかぬ袋入りの琵琶というものの存在が消滅して、その代りに、藁《わら》の苞入《つとい》りの四角な横長の箱と覚しきものを背負っている。
 一方、宇治山田の米友に至ると、めくら縞《じま》の筒っぽはいつも変らないし、これは竹の皮の饅頭笠《まんじゅうがさ》をかぶっているが、この男が饅頭笠をかぶることは珍しいことではない。
 最初、伊勢の国から東下《あずまくだ》りをする時代から、この種の笠をかぶりつけてもいるし、尾上《おべ》の後山《うしろやま》の復活の記念としての跛足《びっこ》は、今以てなおってはいないのだから、それは一目見れば誰でも、それ以外の何者でもないと感づかれるはずなんですが、つい、うっかりしていました。
 二人が二人であるとわかってみれば、二人が二人であることに異議はないのですが、二人が二人ながらどういう径路をたどって、ここまで歩いて来たかということには、なお多大な問題が残されていると見なければなりません。
 よって念のために、大菩薩峠の「農奴の巻」までさかのぼって、それを検討してみますと、弁信法師は、長浜から竹生島《ちくぶじま》へ渡って、一世一代の琵琶を奉納せんと志したが、どう間違ってか、竹生島ならぬ多景島《たけじま》(竹島)に漂着してしまいました。
 弁信法師が、有縁則住《うえんそくじゅ》と抜からぬ面《かお》で多景島に納まり返っているところへ、農奴として処刑せらるべかりし米友が、両士に救われてそこへ身をかくすことになった――という因縁がある。そこまでは書物によって証明ができるが、では、この二人が、いつのまにどうして、あの島を抜け出して、この道へかかったか、それは誰も知った者がない。が、それをいちいち説明していると話が長い。しかし、トニカク、唐《から》天竺《てんじく》へ転生《てんしょう》したわけではない。多景島からは直径にしても、僅か十五里以内のこの地点を歩んでいるのだから、有り得ざることではないし、有り得べからざることでもありません。弁信の肩から生活のたつきの琵琶一面が消滅しているところを以てして見ると、その後、彼は目的を達して、多景島から竹生島に転航し、そこで首尾よく、彼が年来の大願としての琵琶を神前に奉納し了って、そこで、かくばかり肩がわりをしたのか、そうでなければ、竹生島へは渡らずに、つい今の先、この関の蝉丸神社へ一期《いちご》の思い出に納め奉ってしまったのか、そのいずれかであろうとは推察が届くのであります――竹生島にしても、蝉丸にしても、琵琶とは極めて縁が深い。そこへ一期の思い出を掛了《けりょう》し終るということは、物のためにも、器のためにも、人のためにも、極めてところを得たと言ってよいから、心配することはないのです。
 何がさて、笠のことや、琵琶のことはどうありましょうとも、二人がこうして無事であっていてくれさえすれば、よいではありませんか。

         三

 そこで、米友の方から沈黙の第一声を破って、「弁信さん、イヤに明るい晩だなア、お月夜でもなし、お星様もねえのに、イヤに天地が明るいよう」と呼びかけてみたところで、これは弁信にはこたえられまい。明るい月夜であろうと、暗い闇夜であろうと、生れつき、明と暗とが不可分平等に賦与されてある弁信その人にとっては、現実には打って響く何物の経験がない、と見なければならない。では、「夢のような晩だなあ」と形容してみたところで、やっぱり弁信の感覚にはピンと来ないに相違ない。この法師には、明と暗とが不可分平等であるように、夢と現実との区別が、最初からはっきり[#「はっきり」に傍点]としていないのです。
 よって米友の唱破第一声は、米友が米友としての詠歎に過ぎないのですが、それでも、その気分だけは弁信にもよくわかると見えて、それを素直に受入れて、「はい」と言ったきりで、明るいとも、暗いとも、夢に似ているとも、現実に近いとも、あえて肯否のいずれをも言明いたしません。やや暫く、足の方は小止みもないのにかかわらず、言葉がつづかない。
「はい」と言った応唱一声で、あとが続かない。この法師としては、また極めてめずらしいことです。本来ならば、沈黙は沈黙として、ひとたび舌根が動き出して、言説の堤が切れた以上は、のべつ幕なし、長江千里、まくし立て、おどし立て、流し立て、それは怖るべき広長舌を弄《ろう》するこのお喋り坊主が、ただ、「はい」だけで食いとまったことこそ、今までの中での最大驚異
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