大菩薩峠
山科の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蝉丸神社《せみまるじんじゃ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)外|寂《じゃく》ニ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]共
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一
過ぐる夜のこと、机竜之助が、透き通るような姿をして現われて来た逢坂の関の清水の蝉丸神社《せみまるじんじゃ》の鳥居から、今晩、またしても夢のように現われて来た物影があります。先晩は一人でしたが、今夜は、どうやら二人らしい。
その二人、どちらも小粒の姿で、ことによると子供かも知れない。石の階段をしとしとと下りて、鳥居のわきから、からまるようにして海道筋へ姿を見せた二人は、案の如く子供でした。いや、子供ではないけれど、ちょっと見た目には、子供と受取られてもどうも仕方がない。青年にしても、成人にしても、世間並みよりはグッと物が小さいのですが、事実上、子供でないことは、いま海道筋へ現われたところを、もう一応とくと見直しさえすれば、すぐにわかることで、第一、この夜中に子供が二人で、こんなところを夜歩きをするはずがないではないですか。
前なるが寒山子《かんざんし》、後ろなるが拾得《じっとく》、どこぞの宝物の顔輝《がんき》の筆の魂が抜け出したかと、一時は眼をみはらざるを得ないのですが、再度、篤《とく》と見直せば、左様なグロテスクではあり得ない。現実生命を受けた生《しょう》のままの二人が、今し海道筋に出ると共に、ひたひたと西へ向って歩み出したことは、前に机竜之助がしたと同じことですが、柳は緑、花は紅の札の辻へ来てからにしてが、あの時の妖怪味はさらに現われず、また一方、その前日にあったことの如く、追分を左に山城田辺に、お雪ちゃんだの、道庵先生だの、中川の健斎だのというものを送って、女軽業の親方が、さらばさらばをしたような風景もなく、二人は無言のままで、静粛な歩み方をして、深夜の東海道の本筋を西に向って行くのですから、ここ何時間の後には、間違いなく、京洛《けいらく》の天地に身を入れるにきまったものであります。
今日この頃は、京洛の天地に入ることの容易ならぬ危険性を帯びていることは、この二人も知らぬはずはあるまい。まして深夜のことです。今も深夜ですから、この歩調で歩いて行っても僅か三里足らず、京洛の天地は、やはり深夜の眠りから覚めてはいないはず。そうでなくても、海道筋の夜の旅はきつい。打見たところでは、有力な公武合体の保証があるというわけでなし、奇兵隊、新撰組の後ろだてがついているというわけでもないが、こういう人柄に限り、後ろから、オーイオーイと呼びかけて決闘を挑《いど》むという物すごいのも現われず、酒手《さかて》をねだる雲助霞助もてんから目の中へ入れては置かないから、不安なるが如くして、かえって安全なる旅路。
「弁信さん、イヤに明るい晩だなア、お月夜でもなし、お星様もねえのに、イヤに天地が明るいよう」
と後ろなるが呼びかけたのは、宇治山田の米友でありました。
「はい」
と、それを直ぐに受答えたのは、紛《まご》う方《かた》なき弁信法師でありました。
さては、御両人であったよな。グロの友公と、お喋《しゃべ》り坊主の弁信とが、真面目くさって連れ立って歩いているのでした。そんなら、そうと、最初から言えばいいのに。
驚いてはいけない。二人ともに足が地についている。決して、妖でもなければ怪でもない。弁信が先に立って、米友が後ろについて、二人連れでここまで来たのですが、今ぞ鳴くらん望月《もちづき》の、関の清水を打越えても、これやこの行くも帰るも、蝉丸の社をくぐって来ても、二人ともに口を利《き》かなかったものですから、寒山拾得の出来損いだろうなんぞと悪口を叩かれるので、最初から、弁信、米友でございと名乗ってしまえば、お馴染《なじみ》は極めて多い。
人によっては歓迎をしない限りはないのに、物々しく、無言の行をつづけて来たものですから、人が、なあーんだと呆《あき》れてしまう。
それのみではない、この二人のいでたちが、今晩は少し変っているのであります。
二
どう変っているかと言えば、今晩は弁信が笠をかぶっている。墨染の法衣《ころも》は変らないけれども、今日まで弁信という坊主は、旅をするに、全く笠をかぶらなかった坊主です。一つには、笠をかぶると、頭高《かしらだか》に負いなした生活のたつきの琵琶の天神がつかえる、その故障のために、よんどころなく、かぶり物を廃していたのかも知れないが、もう一つには、その自慢(!
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