したものですから、弁信もさもこそとうなずきました。
「では、その世間の方から申してみますると、米友さんも御承知でしょう、今の世間は一方ならず騒がしい世間ではございませんか」
「騒がしいよ」
と米友が言下にうなずきました。
「今日の世界が、騒がしい世界でございますことは、米友さんにも充分おわかりのことと思いますが、それでは何が騒がしいとお聞き申してみたら、さすがの米友さんも返答にお困りでしょう」
「そうよな、騒々しい世間じゃああるけれど、何が騒々しいと聞かれると、ちょっと挨拶に困るなあ」
「その通りでございます――私たちの周囲に何の騒がしいことがございますか、後ろを顧みれば、逢坂、長良の山々、前は東山阿弥陀ヶ峯を越しますると京洛の夜の世界、このあたりは多分、山科の盆地、今の時は丑《うし》三ツ、万籟《ばんらい》が熟睡に落ちております、この静かな世界におりながら、私もこの世界が騒々しいと思い、米友さんも騒々しいと思う、誰が騒いでおりますか」
「誰も騒ぎゃしねえけれど、天下がいってえに騒々しいんだよ」
「なるほど、天下と申しますると、天《あめ》が下《した》のことでございますな。天下がいったいに騒がしいと申しますのは、つまり、天が下に住む人間畜生から、山川草木に至るまでが、みんな動揺しているから、それで騒がしいんでございましょう。ところが、今晩は風も吹かず、雨も降らず、この通り静かなのに、天下がいったいに騒がしいとは、何を証拠に米友さん、それを言いますか」
「何を証拠ったって、お前《めえ》、裁判官じゃあるめえし――」
 米友が、そこで時代ばなれのした裁判官を引合いに出さなければ、そろそろ受けきれない事態に追い込まれて来たことがわかります。さりとて、弁信は、ソクラテス流の産婆術を以て、米友を苦しめんがために検問をかけたのではありません。自分の喋りまくる順序としてのプロローグに過ぎないのですから、直ぐに取ってかわって言いました、
「つまり、目に見える世界が騒がしいのではなく、目に見えない世界が騒がしいから、それで、なんにも知らぬ米友さんの心耳《しんじ》をさわがしてしまうのです、どんな静かなところへ置いても、この心の騒々しさは癒りません、その反対に、どんな騒がしいところへ置きましても、心が安定しておりますと、その静寂を乱すものはないのでございます。真常流注《しんじょうるちゅう》、外|寂《じゃく》ニ内|揺《うご》クハ、繋《つな》ゲル駒、伏セル鼠、先聖《せんしょう》コレヲ悲シンデ、法ノ檀度《だんど》トナル……」
 弁信が物々しく、あらぬ方に向って拝礼をしました。

         五

 こうして、二人は前後して歩きつつあります。
 本来ならば眼のあいた米友が先導をして、眼の見えない弁信がこれに従って行かなければならないのですが、この場合、絶えず弁信が先に立って、米友がついて行きます。言わず語らず、その超感覚に依頼しているものでしょう。
「だがなあ、今夜ここんところは静かだけれど、世間一体が静かというわけにゃいかねえなあ、江戸は江戸で貧窮組が出る、押込み強盗がはやる――辻斬りもたまにはある」
 これは、この男の生々しい体験でありました。
「近江の国へ来て見れば百姓一揆《ひゃくしょういっき》がある、京都へ行けば行くで、また血の雨が降ってるというじゃあねえか、どっちへ廻っても世界は騒々しいのが本当で、今晩ここんところだけが静かだと言って、お前の言うように、目にめえ[#「めえ」に傍点]る世界が静かで、目にめえ[#「めえ」に傍点]ねえ世界が騒々しいんだとばかりは言えなかろう、世間は騒がしいんだよ」
と米友が附け加えたのは、体験から来るところの感覚なのであります。それを弁信が抜からず引きとって、
「その通りでございます、米友さんのおっしゃることに間違いはありません、ですが、米友さんはやっぱり、目を持っておいでですから、二つの世界にわけて見ることができるんですね、米友さんの眼でごらんなすった関東関西いったいの騒々しさと、今そういう騒々しさから全く離れて見ましても、なお、その心の騒々しさを感覚の上に残して、焦《じ》れておいでなさる、でござりますから、それ、どっちへ廻っても騒々しいとおっしゃるのに無理はございません。ところが私のように、目によって物の形を認めることができない身、物のあいろを識《し》ることのできない身になってみますると、世間が静かな時は、この心も静か、世間が騒がしい時は、この心も騒がしい、外の世界と内の世界とは、全く同じなんでございます、二つにわけて考えることはできません」
 そう言うと、米友が存外|和《やわ》らかにそれを受けて、
「なんしろ、弁信さんに逢っちゃあかなわねえよ」
と言いました。
 それは、ヒヤかしと茶化しの意味で言ったのではありま
前へ 次へ
全101ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング