せん。引きつづいて米友が言うことには、
「てえげえの人は、この目で見る世界のほかに世界はねえんだ、目でめえ[#「めえ」に傍点]るもののほかにこの目で見《め》えねえものはめえ[#「めえ」に傍点]ねえんだ、ところが、弁信さんときちゃあ、眼がなくっても物がめえるんだから違わあな、それから、おおよその人は、この耳で物を聞くほかには聞けねえんだ、耳で聞けねえ音というものはありゃあしねえやな、ところが弁信さんときた日にぁ、耳がなくったって物が聞えるんだから大したものさ――弁信さんに逢っちゃあ敵《かな》わねえ」
とあっさり米友が甲《かぶと》を脱いだのは、この怖るべきお喋《しゃべ》りの洪水にかかっては受けきれないからしての予防線ではないのです。事実、米友は、弁信の見えざる世界を見、聞えざる音声を聞くことのかん[#「かん」に傍点]の神妙には降参している。
さればこそ、この不具者《かたわもの》に先《せん》を譲って、自分が後陣を承って甘んじている。米友に言葉の上で甲を脱がせはしたが、さりとて弁信は少しも勝ち驕《おご》るの色を見せず、首の包物の結び目に手をかけながら、ちょっと米友を振返って、
「米友さん、提灯《ちょうちん》をつけましょうかねえ」
「提灯なんざあ要らねえよ、今も言う通り、今夜は月も星もねえけれど、イヤに明るい晩なんだ、おいらは提灯は要らねえ」
米友が提灯の必要なくして、道が歩けるくらいなら、まして況《いわ》んや弁信をやです。ところが言い出した弁信は、更にその主張をゆるめることをしないで、
「いいえ、私共は要りませんにしても、向う様が――向う様がそそうをなさるといけません、向う様のお邪魔にならないまでも、無提灯で人里を歩くのは礼儀にかないません、つけて参りましょうよ、あの大谷風呂でお借りした提灯を――」
「無提灯で歩いちゃあ礼儀に欠けるというのは、どういうわけなんだ」
「昔、江戸では端唄《はうた》がございました、夜更けて通るは何者ぞ、加賀爪甲斐《かがづめかい》か、盗賊か、さては阪部《さかべ》の三十か、という唄が昔ございました、夜更けて無提灯で歩くものは盗賊か、盗賊改めのお役向に限ったものなのです、ですから、世間の人が、無提灯で暗《やみ》の中をうろうろ致していれば、盗賊と間違えられてもやむを得ないものでござります。夜、人をたずねるにも、人を送るにも、または自分ひとり歩きを致しまするにせよ、家々の定紋のついた提灯に火を入れることが礼儀でございまして、礼儀は即ち用心でございます」
「そういうわけなら、大谷風呂で借りた提灯を点《つ》けて歩くとしよう」
そこで米友が、腰にくくりつけていた一張の弓張提灯を取りおろして、丁々《ちょうちょう》と点火にとりかかりましたが、手器用に火がつくと、蝋燭《ろうそく》が燃え出し、鎖を引くと蛇腹《じゃばら》が現われて、表には桐の紋、その下に「山科光仙林」の五字が油墨あざやかに現われました。
六
提灯に火をつけたのも、その持役も、同じく米友でありましたけれども、この提灯持は、世間常例の如く先に立つことをせず、一足あとから、例によってはったはったと歩いて行きます。
如法暗夜ではない、如法朧夜といったような東海道の上り口を「山科光仙林」の提灯が、ゆったりゆったりと渡って行く。
逢坂、長良《ながら》を後ろにして、宇治、東山を前にした山科谷。しばらくすると米友が、はったと足の歩みをとどめて、
「やあ、何か唄が聞えるぞ」
と、耳朶《みみたぶ》の後ろから手笠をもって引立てて見ました。
「そうですね」
米友の耳に入るほどの音声で、その以前に弁信が聞きとめていないはずはありません。
「盆踊りかね」
「今はその季節ではありませんね」
「念仏講かな」
「そうでもないようです」
「祇園囃子《ぎおんばやし》てやつかな」
「そうでもありません」
「鳴り物が入ってるな」
「はい」
「やあ、突拍子《とっぴょうし》もねえ、高い声で歌い出しやがった――聞き取れるよ、文句が聞き取れるよ、じっとしていてみな、おいらの耳でも立派に、歌の文句が聞き取れるよ」
米友は、そこに暫く立ち尽して、耳朶に手をあてがったまま、心耳を澄まそうとしました。弁信も否み兼ねて、同じように立ちどまって、米友が歌の文句を耳にしかと聞き納めるのを待っている。
ややしばし、佇立《ちょりつ》して心耳を澄ました米友が、釈然として次の如く、高らかにその歌詞と音調とを学びました。
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宮さん
宮さん
お馬の前の
ピカピカ光るは
何じゃいな
あれは朝敵
征伐せよとの
錦の御旗《みはた》じゃ
ないかいな
トコトンヤレ
トンヤレナ
[#ここで字下げ終わり]
「威勢のいい唄だよ」
米友が附加して言いますと、弁信は先刻心得面に、
「あれは軍歌とい
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