うものです」
「グンカてえのは?」
「兵隊さんが、声を揃《そろ》えて歌う歌なんです、あの威勢のいい歌を歌いますと、士気がおのずから勇んで参ります、その上に、歌の調子に合わせて、軍隊の歩調がよく調《ととの》います、それ故に、近ごろの洋式の調練では、笛や太鼓なんぞに合わせて、あの勇ましい軍歌をうたいます、多分兵隊さんが調練を致しているのでございましょう」
「そうすると、その兵隊さんが向うから、やって来る、弱ったなあ」
と、米友がここでガラになく弱音を吹きました。弱ったなあ、と言ったのは、何が弱ったのだかよくわかりません。よし、軍隊が繰出して来るにしてからが、それは歌詞にもある通り、朝敵征伐せよとの御旨《おむね》で繰出されて来るのであって、米友征伐に来るわけのものではないから、そんなに弱音を洩《も》らさなくてもいいはずなのですが、米友が、がっかりした調子で言ったものですから、弁信が気の毒がって、
「米友さん、心配なさりますな、あれは少々遠方で調練をしているのです、こっちへ来る気づかいはありません」
と言ったのは、弁信には、弱ったなと言う米友の心持がよくわかるからです。もし、調練の軍隊があの勢いで、こちらへ向って繰出して来た日には、弁信、米友の行先と正面衝突にきまっている。こちらでは衝突するつもりはないけれども、すべて公儀及び官僚の相手は米友にとっては苦手である。彼は今まで、そういう権勢と衝突しなくてもいいところで衝突し、誤解を受けなくても済むべきところを、誤解へ持ち込んでしまっている。最近、このつい隣国で、これがために重刑に処せられんとして、危うく一命を救い出された、いわば兇状持ちにひとしい身になっている。公儀及び官権を肩に着たものは苦手である。なるべくはこれと逢いたくない、できるならば逃避したい、という心持すらが、今の米友には充分に保有されている。それですから、弁信から、その危険の前進性なきことを保証されてみると、弁信の保証だけに信用して、ホッと胸を撫《な》でおろし、
「ドコで調練やってるんだい」
「あれはね、そうですね、鳥羽伏見あたりで歌っているのですよ、練習のために停滞して歌っているので、前進の迫力を持って歌う声ではありませんから、安心なさい」
「そうかね」
 そこで、再々安心して、行手に向って歩みをつづけましたが、その軍歌の声は、いよいよあざやかに耳に落ちて来る。弁信の言うには、一所に停滞した声で、前進の迫力の声ではないとのことですけれども、米友の耳で聞くと、刻一刻に自分の耳元に迫って来て、いよいよ近づいて、いよいよ冴《さ》えて来る。どうして、あちらから歩武を揃えて堂々と前進し来《きた》る合唱でないとは言われません。そこで、米友が再び迷うて、弁信に向って駄目を押しました、
「弁信さん、大丈夫かエ、軍歌が、だんだんこっちへ近づいて来るような気持がするぜ」
「え、それは耳のせいと、風向きのせいでございましょう、実は以前と少しも変っておりません、鳥羽伏見あたりで稽古をしているのでございますよ」
「鳥羽伏見てのは、いったい、ドコなんだ」
 弁信が、ひとり合点で言うものですから、米友が、確《しか》とその地理学上の根拠を突きとめようとしました。鳥羽は京都の南部に当り、伏見はこれよりやや東に隣り、道のりでは四里八町ということになっているけれども、距離はいずれこの地点から三里内外。
 ところで、二人は追分から、右へ伏見道へそれず、山科に入り、四宮、十禅寺、御陵、日岡、蹴上、白川、かくて三条の大橋について、京都に入るの本筋を取るつもりであろうと思われます。

         七

 二人の立っている地点から見ると、後ろは逢坂の関から比良、比叡へ続く峯つづき、象ヶ鼻、接心谷、前は音羽山、東山、左へやや遠く伏見の稲荷山、桃山――その間の山科盆地をさまよっている。京の中心へも程遠からぬところ、東山を打貫きさえすれば、鳥羽も、伏見も、つい目と鼻の先にはなっているが、かくまではっきり軍歌の歌詞までが受取れるほどの地点とは思われぬ。だがこの場合、弁信の錯覚があるとないとにかかわらず、米友は一応その説明に満足し、また満足するよりほかに地理の観念を持たない身は、それに聴従するよりほかはなく、相ついで歩いているが、関の明神を出てからでも、もういく時にもなるのだから、相当道のりも捗取《はかど》っていなければならないのに、離れて第三者から見ていると、「山科光仙林」の提灯が同じところを行きつ戻りつしている。そうでなければ、グルグルめぐりをしているとしか思われない。さては京に入る前にドコぞ立寄るところでもあって、戸別《こべつ》家さがしでもやっているのか知らん。とにかく、二人は山科谷に彷徨《ほうこう》して、京へ直入の足は甚《はなは》だ怪しくなっているのですが、その間に
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