も、例の、
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宮さん
宮さん
お馬の前の
ピカピカ光るは
何じゃいな
あれは朝敵
征伐せよとの
錦の御旗じゃ
ないかいな
トコトンヤレ
トンヤレナ
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の軍歌は、いよいよ明亮《めいりょう》を極めて、絶えず、前から襲って来たものですから、米友もつい、そのリズムに捲き込まれて、いい気になってしまい、歩調までが勇み足になった上に、
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トコトンヤレ
トンヤレナ
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と伴奏しはじめたかと見ると、興に乗じたか、提灯を地面に置いて、自分は道のまんなかに踏みはだかり、手にした例の振杖ではない杖槍を取って、中空に投げ上げ、それが落ちかかるやつを手早く取って受けては、またクルリと中空へ投げ上げる、右へ泳ぐのを左で受けたり、左へ流れるのを右で受けたりして、合《あい》の口拍子には、
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トコトンヤレ
トンヤレナ
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とはしゃいでいる。
 それに頓着をしない弁信は、委細かまわず突き進んで、やがて本街道から外れて、とある藪小路《やぶこうじ》に突き入ってしまいました。トコトンヤレを口ずさみながら、米友がそこに踏みとどまって、棒を弄《ろう》して以てあえて弁信のあとを追おうとしないのは、あらかじめ諒解があって、弁信は弁信としての当座の使命があり、その使命を果すべく自由行動を取り、米友は米友として、その待合せの時間を余戯でつぶしていると見ればいいのです。
 弁信の姿が藪の中にすっかり没入したが、海道に踏みとどまる米友は、杖槍を中空にハネ上げたり、受け止めたり、ひとり太神楽《だいかぐら》の曲芸は以前に変らない。いや、以前よりも一層の興味をわかして、自己陶酔に落ちると、いつもする一流の型をつかいはじめました。
 ひとたび藪蔭に身を没した弁信は、容易に姿を現わして来ない。
 にも拘らず、米友が手練の入興はようやく酣《たけな》わになりまさって行って――ようやく忘我の妙境に深入りして行く。
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トコトンヤレ
トンヤレナ
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 口合いの口拍子だけは、いっかな変らない。惜しいことに、今晩もまた、無料無見物の中に、得意の秘術をほしいままに公開している、その陶酔境の真只中へ、
「米友さん、わかりました」
 弁信が、竹の小藪の蔭から抜からぬ面《かお》を現わしました。

         八

 しばらく弁信法師に導かれて来て見ますると、久しく閉された柴の門に、今日この頃ようやく手入れをして、いささか人の住める家としたらしい、その前へ来ました。近よって米友が門の柱を見ると、三寸に四寸ほどの門札のまだ新しいのがかけられたのへ、提灯を振りかざして見ると「光仙林」――それは自分の提灯に記された文字と同じであることを知りました。
 そこで来るべきところへ来たという安心がありました。
 その門をくぐって、屋敷の中へ入って見ると、広いこと、門の外も同じ原っぱならば、門の中もまた同じような原っぱ。
 さすがに門の外は、荒寥《こうりょう》たる自然の山科谷だけれど、門の中には相当に手入れをした形跡はある。自然の林と原野とを利用して、相当人間の技巧を加えたのが、久しく主に置き忘れられて、三逕荒《さんけいこう》に就き、松菊なお存するの姿にはなっていたけれど、これもきのうきょう開きならしたらしい旧径のあとは、人を奥へ導いて、この道必ずしも鳥跡ではないことがわかる。
「ずいぶん広い屋敷だ」
と、歩きながら米友もひそかに舌を捲いたくらいだから、門を入ってさえドコに人家があるのだか容易にわかりません。
「光仙林」ていうから林の名なんだ、だが門があって、表札が打ってあるからには、人の住むべき構えがなければならないということを、強く予想しながら、弁信にまかせて従って行くと、果して、一口の筧《かけひ》を引いた遣水《やりみず》があって、その傍に草にうずもれた低い家があったのです。
 そこへ来て見ると、何よりも人の住んでいることに間違いのないという証拠は、幽《かす》かながら燈火の影がさしていることで、またも米友を安心させると、時を同じうして弁信のおとなう声を聞きました。
「御免下さいませ、関守様はこれにおいででございますか」
と案内を乞《こ》う声によって、中に人あることの見込みも確実ですが、ただちょっと、この際、米友の聞き耳を立たせたのは、弁信のおとなう声の中に、関守様と特に名ざしたことです。
 関守といえば、その人の固有の姓、たとえば関口とか、関根とか、関山というような種類のものでなくて、関を守る人という意味の特別普通名詞であるに相違ない。
 してみると、中なる人を関守氏と呼んだ以上は、ここは関だ、つまりお関所なんだ。お関所は幾つもある、東海道の箱根の
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