お関所をはじめ、米友にはいくらもこれが出入りの体験がある。中仙道に至っては、道庵先生の従者として具《つぶ》さに、その幾つかを経歴して来たのだが、ついいま参詣した蝉丸神社《せみまるじんじゃ》というのも、あの辺がれっき[#「れっき」に傍点]とした古来の関だと聞いて来たが、別段、役人がいて手形を出せとも言わなかった。表向には逢坂の関というのがあって、その裏に小関がある。自分たちは小関越えをして来て、それから少しあと戻りをして、蝉丸神社へ参詣したと覚えているが、ドコをどう廻っても、お関所らしい役所はなし、手形を出せという役人もいなかったが、それではここがお関所なんだな、いわゆる逢坂の関というやつなんだな、それにしても、お関所にしては屋敷は広いが、表がかりが寒頂来《かんちょうらい》だ、お関所も時勢につれて、身代が左前になったから、こっちの方へ引込んで、隠居仕事に関代《せきだい》をかせいでいるのかも知れない――などと、米友が予想しながら、なお暫《しばら》く弁信の為さんように任せて待っていると、やがて、中から戸を押す物音があって、紙燭《しそく》を手にかざして、
「弁信殿か、よく無事で見えられたな」
 障子のかげから、こっちへ姿を現わしたその人は、思いきや、関守には関守だけれども、不破の関守氏でありました。

         九

 不破の関守氏ならば、米友も旧識どころではない、つい近ごろまで、胆吹の山寨《さんさい》で同じ釜の飯を食っていた宰領なのですから、なあんだ、それならそれと言えばいいにと、少し苦い顔をしていました。
 しかし、米友としては、向うでお化けに逢って、それを突き抜けて来たら、またここで同じお化けに出逢ったような気持で、出し抜かれた上に、先廻りをされて、ばあーっと言われたような感じがしないでもありません。
 だが、そういうことは、弁信が先刻心得面であるから、米友はまず提灯をふき消すだけの役目をすると、人をそらさない関守氏は、
「友造君、よく無事で見えられたな」
と、弁信に対すると同一の会釈を賜わりました。ただ一方には弁信殿とかぶせたのに、今度は友造君と前置きをしただけの相違で、あとの会釈は一字一句も違わない音声と語調でありましたから、米友も納得しました。もし、これがいささかでも相違して、弁信に対しては客分、米友に対しては従者あつかいの待遇でもしようものなら、この男として、相当不快な感情を表わしたに相違ないが、その辺の呼吸は心得たもので、関守氏は一視同仁の会釈を賜わったのみならず、弁信を招ずるが如く米友をも招じ、二人ともに無事このところへ安着を賀する心持に優り劣りはなく、果ては二人のために洗足《すすぎ》の水まで取ってそなえてくれるもてなしぶりに、弁信はともかく、米友はいたく満足の意を表しました。
 そもそも、この人と、それから青嵐居士との二人に助けられて、農奴として斬らるべき運命の身を救《たす》けられて、多景島までかくまわれ、ここで弁信に托して一命の安全を期し得たのは、つい先日のこと。
 してみれば、二人をまたあの島から、この谷へ移動させるまでに肝煎《きもいり》をしていてくれたのもまたこの人、親切であって、ちょっとの抜りもない人だが、しかし、その親切ぶりと、抜りなさ加減に多少、気味の悪いところもある。あまりに抜身の手際があざやかなものだから、米友としては、いささか化け物を見るような感がないではない。
 やがて、不破の関守氏は二人を炉辺に招じて、ふつふつと湯気を吐きつつある鍋の前に坐らせました。無論、自分もその一方の、熊の皮か何かを敷いた一席に座を構えているので、あたりを見れば短檠《たんけい》が切ってあって、その傍らに見台《けんだい》がある、見台の上には「孫子《そんし》」がのせてある。
 その見台の上にのせてある書物を「孫子」だなと、米友が睨《にら》んだわけではない。本がのせてあるなということは、たしかに睨んだけれども、一目見て「孫子」だなと睨み取るほどの学者ではなかったのです。
 ここへ来たのはホンの昨今であろうのに、もう十年も住みわびているような気取り方が、米友にはまたいささかへんに思われる。
 加うるに膳椀《ぜんわん》の調度までが、一通り調《ととの》うて、板についているのは、前にいた人のを居抜きで譲り受けたのか、そうでなければ、お勝手道具一式をそのまま、あたり近所から移動して来たとしか思われません。
 かく甲斐甲斐しく炉辺の座に招じて置いてから、不破の関守氏は、
「君たち、まだ夕飯前だろう、何もござらぬが手前料理の有合せを進ぜる」
と言って、膳部を押し出したのを見ると、お椀も、平《ひら》も、小鉢、小皿も相当整って、一台の膳部に二人前がものは並べてある、しかも相当凝っている。
「さあさあ、お給仕だけは御免だよ、君たち手盛りで
前へ 次へ
全101ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング