遠慮なく食い給え、米友君、君ひとつ弁信さんに給仕をして上げてな、食い給え、食い給え」
鍋の蓋《ふた》を取って、粟《あわ》か、稗《ひえ》か、雑炊か知らないが、いずれ相当のイカモノを食わせるだろうと思ったところが、鍋の方は問題にしないで、黒漆の一升も入りそうなお櫃《ひつ》をついと二人の方へ突き出したものだから、米友が、この時も小首をヒネりました。
お膳の上を見直すと、小肴《こざかな》もある、焼鳥もある、汁椀も、香の物も、一通り備わっているのだが、はて、早い手廻しだなあと、いよいよ感心しているうちに、
「さて、食事が済んだら、弁信殿は女王様がお待兼ねだから、あちらの母屋《おもや》へ行き給え、米友君はここに留まって、拙者と夜もすがら炉辺の物語り」
さては女王様、即ちお銀様もここに来ているのか――いずれも熟しきった一味の仲間でありながら、米友はここにも、化け物が先廻りをしている、ドレもこれも化け物だらけという気分で、おのずから舌を捲きました。
自分がドノくらいの程度の化け物だか、そのことは考えずに……
十
やがて弁信法師だけが案内を受けた、この屋敷の母屋というべき構えは、平家建の低い作りではあって、すべて光仙林のうちに没却してはいますけれども、内容の数寄《すき》を凝らしたことは一目見てもそれとわかるのであります。
光悦筆と落款《らっかん》をした六曲の屏風《びょうぶ》に、すべて秋草を描いてある。弁信には見えないながら、見る人が見ると、すべてが光悦うつしといったように出来上っている。古い構えではあるけれども、相当手入れを怠ってはいなかったらしく、寂《さび》がついて、落着いて、その一室に経机を置いたお銀様の姿を見ると、室の主として、これもしっくり納まっている。
「林主様《りんしゅさま》、弁信法師が参りました」
「あ、そうですか」
とお銀様は、しとやかな言葉で、この法師を待受けました。
「お嬢様、弁信でございますが、はからぬところでお目にかかります」
「友造どんは、どうしました」
それを不破の関守氏が引きとって、
「あれも一緒に、無事これへ着きましたが、食事を済ませまして、とりあえず弁信殿だけをつれて参りました」
「弁信さん、そこへお坐りなさい、そうして今晩は、ゆっくりあなたと話がしたい」
「いずれ、急がぬ身でございますから」
「では、拙者に於てはこれにて御免――」
不破の関守氏は弁信を置きっぱなしにして、自身のわび住居《ずまい》へ帰ってしまいました。
お銀様の経机に向った周囲を見ますと、幾つかの封じ文が、右と左に置かれてある。机の上にも堆《うずたか》いほどの手紙が載せてある。察するところ、この手紙類を右から取っては左へ読みついで、ひたすらそれに読み耽《ふけ》っていたところらしい。弁信が来たものですから、手紙の方はそのままにして置いて、お茶の立前《たてまえ》にかかりました。
お銀様のお手前は本格であります。珍しくも手ずからお茶を立てて、弁信法師をもてなそうとするのであります。
「一つ、召上れ」
ふくさに載せて、わざわざ弁信の前に置かれたものですから、この法師もいたく恐縮しました。
差出された茶碗を見ると、これも光悦うつし、いや、うつしではない、光悦そのものの肉身の手にかけて焼き上げたもの――むやみに、うつしうつしと口癖になってしまってはお里が知れる。
「これはこれは、痛み入った御接待にあずかりまして」
例によって物堅い弁信法師の辞儀、お手前ともお見事とも言わないで、御接待と言いました。そうしてその言葉にかなう恭《うやうや》しい手つきで、茶碗を取って押戴いて二口飲みました。弁信法師も、お茶の手前の一手や二手は心得ているに相違なく、手振《てぶり》も鮮かに一椀の抹茶《まっちゃ》を押戴いて、口中に呷《あお》りました。
「お願いには、もう一椀を所望いたしとうござります」
お銀様はそれを喜んで、更に一椀を立てて弁信に振舞いました。
それを快く喫し終った弁信が、澄ました面《かお》を、いっそう澄ませて、
「たいそう落着いたお住居《すまい》のようでございますが、いつこれへお越しになりましたか、そうして、以前どなた様のお住居でございましたか」
「これが弁信さん、山科の光悦屋敷と申しまして、今度、わたしが引取ることになりました」
「あ、これがお話に承った光悦屋敷でございますか、そうして、居抜きのまま、そっくりあなた様がお引取りになりました、それは結構なことでございます、おめでたいことでござります」
「父が欲しいと申しましたが、わたしが引取ることになりました」
「ああ、そのお父様のことでございます、はるばる甲州路から京大阪の御見物と申すは附けたりで、実はあなた様を見たいばっかりで、おいであそばしたそうでござりまするな
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