せん。不吉な夜鳴きでない限り、鶏の鳴く音は常態でありますけれども、犬の吠ゆるは非常態でなければならない。
 そこで、この屋敷に相当|逞《たくま》しい犬が飼育されていることもわかり、その畜犬が物に触れて、いま声を立てたのだということもわかりました。犬が物に感じたというその物は、人間以外の何物でもありますまい。つまり、不時に、思いがけぬ人の気配《けはい》を感じたればこそ、畜犬が、主家の防備と、自己保存の本能のために叫びを立てたに相違ない。それを勘の強い弁信が聞き洩《も》らすはずはありません。
「犬がおりますな」
「ええ、強い犬がいます」
「誰か参りました」
「不破さんでしょう」
「いいえ、別の人です」
 つついて、犬が立てつづけに吠える、その声は尋常の犬と違って、腹から出る音声を持っていて、この座の人の丹田にこたえるのみならず、おそらく、この静かな時、十町を離れたところでらくに聞き取れるほどの音量が、超感覚の弁信の耳に、いよいよこたえないはずはありません。
「変っておりますな、あの犬は、ただ犬ではありません」
「ただの犬ではありませんよ」
 非凡なる犬といえば誰しも、ムク犬を思い出すが、ムクは今、太平洋の海の中にいるはずですから、まかり間違っても山科谷の間へ来るはずはありません。
 ただ、お銀様だけが、ただの犬でないことを心得ているらしい。
 鶏犬の声によって、この場の会話は甚《はなは》だ白けてしまいました。弁信法師のせっかくの広長舌も、なんとなく出端《でばな》を失い、光芒《こうぼう》を奪われたかのような後退ぶりです。

         十三

 一方、不破の関守氏は、米友を炉辺の対座に引据えて、これもしきりに物語りをしておりました。
 不破の関守氏は座談の妙手である。これはお銀様のように、権威と独断を人に押しつけることをしないし、弁信のように、感傷と理論の饒舌《じょうぜつ》に人を悩ますようなことがありません。平談俗語のうちに、世態人情を噛みしめて話すものですから、米友もたんかを立てる隙《すき》がなく、これをして神妙に聞き惚《ほ》れて、しきりにうなずかせるだけのものはありました。
 そのくらいですから、会話に興が乗っても、これが切上げの潮時をもよく知っている。この小男も相当疲れているであろうことを察して、程よく一室に入れて彼を寝かし、己《おの》れも寝について、そうして無事に暁に至りました。その時、犬の吠える声を聞くと、今まで熟睡していた米友が、ガバと身を起して、
「今、犬が鳴いたなあ」
 犬ならば吠えるというのが正格であろうけれど、鳴いたと口走ったのは、それと前後して鶏の鳴いたその混線のせいかも知れません。次の間に寝ていた不破の関守氏も、もうこの時分、すっかり覚めておりました。
「誰か来たようだよ」
「いま犬が吠えたねえ、おじさん」
 誰か来たか来ないか、そんなことは注意しないで、犬の音声だけが特に気がかりになるらしい。
「吠えたよ、だから、誰か人が訪ねて来たと思っているのだ」
「今の犬は、ただ犬じゃあない」
と米友は、ただこれ、犬にのみ執着している。
「ただ犬じゃねえ」
と不破の関守氏は、隣室から米友の口真似《くちまね》をして、
「すばらしい犬だ、起きたら君に見せてやる、それは二つとない豪犬だ」
「二つとねえ犬……」
「そうだ、朝の眼ざましにはあれを見てみるかい」
「早く見てえな」
 米友は、たまり兼ねて、ハネ起きて、その犬を見たがる気配を関守氏が感じたものですから、
「まあ、待ち給え、逃げろと言ったって逃げる犬じゃない、起きてから、ゆっくり見給え」
「ただ犬じゃねえ、腹で吠えてやがる」
と米友は、半身を蒲団《ふとん》から乗出して、その犬の声にすっかり執着するが、不破の関守氏は犬の吠える声よりも、その吠える声によって暗示される何者かの来訪、それにしきりに注意を傾けているようです。
 だが、暫くして、犬の吠える声は全く止まり、鶏の鳴く声だけが連続して聞えました。犬の吠ゆるは非常をそそるけれども、鶏の鳴く音は、平和と、希望を表わすこと、いずこも変りません。
 非常の示唆《じさ》たる犬の警告が止んだのは、失火の静鎮から警鐘が鳴りをひそめたと同様で、つまり、何物か一応、外をうかがったものがあるにはあるが、この警告に怖れをなしたと見えて、直ちに引取って、危害区域外に立去ったから、この屋敷は安全地帯に置かれた。代って、平和の使徒が光明の先触れをしたまでの段取りで、かくて東天紅《とうてんこう》になり、満地が白々と明るくなりかけました。
 不破の関守氏も朝寝坊の方ではないが、米友ときては、眼がさめたら、じっとしてはおられない。関守氏は、やおら起き出でて、筧《かけひ》の水で含嗽《うがい》を試みようとする時、米友はすり抜けて、早くも庭と森の中へ身
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