を彷徨《ほうこう》させて、ちょっとその行方がわかりません。
山科の朝はしっとりと重くして、また何となく親しみの持てる秋でありました。
十四
かくて、宇治山田の米友は、光仙林の秋にさまよいました。
深山と幽谷の中にわけ入るような気分があって、心がなんとなく勇みをなすものですから、いい気になって、園林の間を歩み歩んで行くうちにも、我を忘れて深入りをしようとするわけでもない。
今日は、心置きなく自分の住宅区域の安全地帯に、誰|憚《はばか》らず遊弋《ゆうよく》することができる。この幾カ月というもの、米友の天地が急に狭くなって、あわや、この小さな五体の置きどころさえこの大きな地上から消滅しようとした境涯から、急に尾鰭《おひれ》が伸びたように感じました。
おそらく、自由という気持を、この朝ほどあざやかに体験したことはなかろうと思われる米友が、その自由の尾鰭を伸ばすには、かなり充分な面積を有するこの異様な光仙林の屋敷は、空気に於てあえて不足を与えない。
そこで米友は、いい心持で朝の散歩を思うままにして、どこにとどまるということを知らないが、さりとて、埒《らち》を越えるというのでもなく、行きては止まり、歩みては戻り、径《みち》の窮まらんとするところでは、杜《もり》を横ぎり、水の沮《はば》むところでは、これをめぐって、行きつ戻りつしていたが、誰あって咎《とが》むる人がない。
「広い屋敷だな」
その屋敷は何万坪にわたるか、米友には目算が立たないが、向うの丘山を越えても、なお地続きに制限はないと思われる。地所に制限はないと思われるが、米友の心にはおのずから制限があって、あまり遠くへふらついて、関守氏を心配させては済まないという道義感がついて廻るから、暫くして、また取って返して、住居の方へ戻って来ると、ぱったりと物置小屋の隅に異様なものを認めて、
「あっ!」
と舌を捲き、その途端に、例によっての地団駄を踏みました。
遽然《きょぜん》として彼の平静の心を奪ったところに、物がある、動く物がある。
いったん舌を捲いて地団駄を踏むと共に、彼は、それに吸いつけられたもののように、一足飛びに飛んで行って見ました。
物置小屋の傍らに、差しかけがあって、その下に、いる、いる、一頭の犬がいる。
しかも、その犬が断じてただ犬ではない。
「やあ、いたな!」
走り寄った弾丸黒子《だんがんこくし》の姿を見ると、そのただ犬でない犬が、唸《うな》るが如く、米友に向って吠えました。
「やあ、いたな!」
彼が、摺《す》りよるほどに近づくと、犬は続いて尾を振って吠えかける。その吠える声が、さきに米友が評した如く、「腹で吠えてやがる」という底力のある吠え声であることはよく知っているが、それが威嚇《いかく》の音声でないことは、多少とも尾を振っていることを見てもわかる。且つまた、犬を知り、犬を愛し、犬を理解することに於て、宇治山田の米友はまた一つの天才である。
「やあ、いたな!」
犬の傍へ寄ると、犬がまた米友に飛びついて来ました。飛びついて来たからといって、この異様な珍客に争闘を挑《いど》むのではない、これを懐かしがって心からの抱擁を試みんとするものらしい。
けれども、この抱擁が生やさしい抱擁でなかったことは、一見すると、米友がこの犬のために抱きすくめられてしまったとしか思われない。尋常ならば悲鳴をあげ助けを呼ぶべきほどの体制に置かれた瞬間、米友は更にひるむということを知らないで、抱きすくめられながら、それを抱きとめてあしらっている。
一見したばっかりの米友が、かくまで犬を愛するということは、犬にかけての天才であってみると不思議はないようなものだが、相手方の犬が、米友を一見しただけで、こうにも懐かしがるということは解《げ》せない。
本来、沈毅《ちんき》にして、忠実なる犬であればあるほど、人見知りをすべきはずのものである。真に沈毅にして、勇敢にして、忠実なる犬は、二人の主というものを知らない。主人以外の人の与うる物を食わない。主人以外の人には一指を触るることを許さないはずのものであるべきに、この犬――しかもただ犬でないと、最初から米友が極《きわ》めをつけてかかった非凡な犬が、こうまで一見の人になつき慕うとは、慕われてかえって物足りない。
人見知りをしない犬、節操を解しない犬、忠義ということを知らぬ犬、勇気なき犬、公娼《こうしょう》の如き犬ならば知らぬこと、米友ほどのものが、あらかじめ極めをつけた犬にしてこのことあるは何が故だ。
そういうことを考慮に置かず、ただ見ていれば、何のことはない、その非凡犬と、小男とが、必死になって、組んずほぐれつしているとしか見えない。血こそ流さないが、血みどろで格闘しているとしか思われない。
ことに、この
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