かるかも知れませんが、私という女は、わからない女なのです」
「いや、わかり過ぎておいでになる――」
「いいえ、わかりません、わたしという人間は、天地間第一等のわからず屋でございます、それでいいのです」
 お銀様の言葉が少し癇《かん》に立ってきたので、弁信はまた病気が出だしたなと思ったのか、広長舌を食いとめて、深く触れることを避けた心遣《こころづか》いがあります。そこで、なにげなく話頭を一転し、語気を一層|和《やわ》らげて、
「それで、なんでございますか、あなた様の代りにお家をおつぎになる相続人、果してお父様のおめがねに叶うお人がありまするやら、その辺に立入っての御相談はございませんでしたか」
「ありました」
 お銀様は、きっぱり答えたので、弁信法師も少しくはずみました。

         十二

「そのお方はどなた様ですか、あなた様の御親戚のうち、或いはお知合いの方で、まずあれならばと思召《おぼしめ》すようなお心当りがございましたか」
「いいえ、ちっとも知らない人です、なんでも連れ子をして、このごろ家に居候《いそうろう》をしていた他国者なんだそうですが、それを見込んで父が親子養子にすると申しますから、御存分に、身分素姓などのことをかれこれ申すくらいなら、最初から私が嗣《つ》ぎますと、私は言いきってしまいますと、この場はそうでも、後日ということもある、他人を相手のことだから、これに判をしなさい、父の認めたこれこれの養子に家督一切を譲っても、後日に至って毛頭異存のないというこの書附に判を押しなさいと、父が申しますものですから、ええ、ようござんすとも、ようござんすとも、判などは幾つでも、どこへでも捺《お》して上げますと、私はその証文へ自筆で名を書いて、女だてらの血判までしてやりました」
「あなた様のお名前を書き、血判までしておやりになりましたならば、その証文面をイヤでも一応はごらんになりましたでしょう、あなた様に成代《なりかわ》って家をおつぎになる、父上のおめがねにかなった新しい御養子というお方は、いったいどのようなお方でございましたか――せめてそのお名前くらいは」
 弁信法師が念を入れて、根深くたしかめようとすると、お銀様が、
「本人の名は、与八とだけ書いてあるのを見ました、その傍に並べて、郁太郎《いくたろう》と書いてあったようです、郎という字かと思いましたが、郎太郎という名前もないでしょうから、あれは郁太郎――つまり親が与八で、子が郁太郎、それが私に代って、父の家を引きついで、寝かし起しをしてくれる親子養子になったことと思います」
「何とおっしゃいます、与八に、郁太郎――」
 そこで、物に動ぜぬ弁信法師の語調が、いたく昂奮したような様子が歴々です、お銀様は言いました、
「わたしは、与八がどういう人で、郁太郎という子が誰の子だか知りません、知ろうとも思いません、ただあの二人が、これから藤原の家を踏まえて、わたしに代ってあの家を立ててくれることを、御苦労だと思っています、いいえ、立ててくれるのか、つぶしてくれるのか、それも知りたいとは思いません」
 そうすると、弁信法師が抜からぬ面《かお》で答えて言うことには、
「その与八さんとやらは、おそらく、お家をつぶしてしまうでございましょう、また、潰《つぶ》されても悔いないと思えばこそ、あなたのお父様も、その二人を御養子になさる御決心がついたのです」
「いったい、家を起すの潰すのということが、私にはよくわかりません」
「左様でございますとも、諺《ことわざ》に女は三界《さんがい》に家なしと申しまして、この世に女の立てた家はございません、本来、女人《にょにん》というものは、物を使いつぶすように出来ている身でございまして、物を守って、これを育てることはできないものなのでございます、家を起すのは男の仕事でございまして、家をつぶすことは女の仕業《しわざ》なのです、もとより、すべての男が家を起すべきもの、すべての女が家をつぶすべきものとは申しませんが、この世に、女の起した家というものはございません、本来、女には家そのものがないのですから。たとえて申しますると……」
「コケコッコー」
 弁信法師の饒舌《じょうぜつ》が、理窟に堕しつつも、これから夜と共に深入りをしようとする矢先に、つい近いところで鶏がけたたましく鳴きました。
 ははあ、話は夜と共に深入りをしようとする時、はや世界は明け方に向ったのか。鶏の声々に引きつづいて、つい近い庭先で、一声のすさまじい犬の吠《ほ》ゆる声を聞きました。鶏の鳴き声は、ちゃぼの鳴き声でありましたが、犬の吠え方は、ついぞ聞いたことのない、鋭くして強い吠え方でありました。鶏犬《けいけん》の声は平和のシムボルでありますけれど、鶏は時を作るものだが、犬は時間を知らせるものではありま
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