甚《はなはだ》しく迫ることを感じ、なるほど、ここは要害だ、柴田勝家が越前から上るにしても、羽柴秀吉が近江から攻めるについても、両々共にその咽喉首《のどくび》に当る、兵を用ゆるには地の利を知らなければならぬというようなことを、何とはなし、痛切に感ぜしめられました。
 そうして、福井の足羽山で呼び起された柴田陥落の悲劇だの、太閤の雄図だの、実際に於ての想像を追うて行くうちに、不思議と、北の庄の城から送られて来る淀君の面影、その母のお市の方、武力戦は同時に色慾戦であった。国を取り、城を屠《ほふ》った勝利者の獲物の中には、必ずや女がある――というようなことまで、ひとり旅の身には、何とはなしに思いやられるのでありましたが、実を言うと、それらの名所古蹟よりも、歴史人物よりも、兵馬の脳中に食いついて離れないのは、あの田舎芸者《いなかげいしゃ》の福松のことばっかりでありました。我ながら、切れっぷりのさっぱりしたことを感じないでもないが、それにしても、どうも痛切にあの女のことばっかりが頭に残っているのは、何としたことだ。
「あなたは、女の情合いというものはわかっているけれど、女の意地というものがわからない」――自分としては実際、手際よく相手になり、手際よく別れて来たと思うけれど、それにしては、何か大事なものを落して来たような気がしてならない。捨てたつもりでやって来たのに、実はまだ頭に置いている、背に負っている。昔、なにがしの禅僧が二人、川の岸に立っていると、一人の手弱女《たおやめ》が来り合わせて、川を渡りわずらうのを見て、一人の禅僧が背中を貸して、その妙齢の女を乗せて川を渡してやって、向う岸で卸《おろ》して別れた。程経て、一人の禅僧が曰《いわ》く、君とは今後同行を断わる、なぜだ、出家の身で眼に女人を見るさえあるに、その肉体を自分の背に負うて渡るとは何事だ、そういう危険な道心者とは同行を御免|蒙《こうむ》りたい、そう言われると、女を負うて渡した禅僧が恬然《てんぜん》として答えるよう、おれはもう女を卸してしまったが、貴様はまだ女を背負っている!
 そうだ、そうありそうなことだ、おれはまだ女と別れていないのだ、と宇津木兵馬が、むらむらとそのことを考えました。兵馬は自分が潔白無垢な身上だとは信じていない。色里に溺《おぼ》れて人を泣かせたこともあるし、女に対しては脆《もろ》いものだという過去の経歴を自白せざるものあるを悲しむ。だが、妙に人見知りをして、意地を張ることもあるにはある。迷うべき時には迷うが、迷わざらんと意地を張れば、張り通すこともできるのだと信じてもいるし、また相手次第によって、人見知りをする引け目か用心か知らないが、一髪に食いとめる体験をしていないではない。お松のような堅実な女性には、どうも、いくら真実が籠《こも》っていても、狎《な》れることを為し得られないし、お絹というような爛《ただ》れた女の誘惑は、逃げることも知っているが、今度の道中では、あの大敵を道づれにして、とうとう自分の節操を守り通して来たということに、多少とも勝利に似たような快感を覚えて、かく引上げては来たのだが、ここへ来るまで、何やら言い知れぬ空虚を感じ、綿々としてあの女のために糸を引かれてたまらない。自分が、あの女一人を目の敵《かたき》として、女は絶えず素肌で来ているのに、自分だけは甲冑を着通して相手になって来た、それは勇者の振舞でもなんでもなく、卑怯な、強がりな、笑止千万な行程ではなかったか。落ちなかったところが何の功名? 落ちてみたところが何の罪? たかが女一人のほだし、女というものの意気に感じてやらなかった自分がかえって大人げない! 今となってみると、無性に何だか、あの女がかわいそうだ。あの女としては、全力を尽して、自分の身上を働きかけて来たのだから、その意気を買ってやるのもまた男ではないか。必ずしも清浄潔白とは言えない身で、変なところへ意地を張って来てみたのが、おかしい。なお一皮の底を剥いで見ると、あの種類の女には毒がある、毒というのは誘惑の毒ではない、体毒がある、つまり悪い病気がある、それを内心怖れていじけたのか――何にしても、女は素肌で来ているのに、甲冑をかぶり通して来た自分が卑怯未練だ!
 兵馬は、その思いに迫られてみると、手の中の珠《たま》を落して来たような焦燥を感じたり、宝かなにか知らないが、溢《あふ》れきった蔵の中に入って手を空しうして出て来た、といったような物足らなさが、ひしひしと心に食い入って、もう一ぺん引返して、女を見てやろうかという気分にさえ襲われたが、二十里も来て、ばかばかしい、そんなことが――と冷笑してみたりしたのですが、結局、高山以来の山の道中の、女のもてなしが、ここへ来て、ひしひしと体あたりを食《くら》い、あのとき突返した自分の受身が、今
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