《いくばく》もなくして運命逆転――相手の宿将の城を焼き、一族を亡ぼす秋《とき》になってみると、秀吉としては、勝家の首を挙げるよりも、三度の古物《ふるもの》ではありながら、生きたお市の方の肉体が欲しい。勝家は勝家で、あらゆる羨望を負いながらお市の方を我が物としたけれども、元はと言えば主筋に当る、これをわが身、わが家の犠牲として同滅するには忍びない、そこで、お市の方に向って、汝《なんじ》はこれより城を出でて秀吉の手にすがれ、主君の妹であるそちを、秀吉とても粗略には扱うまいから、早々城を出るがよいと、いよいよのとき言い渡したが、お市の方とても、いったん浅井に嫁いで、夫亡ぶる時におめおめと城を出た自分が、またもその先例を繰返すようなことができようはずはない、今度こそは、夫君と運命を共にする、だが、二人の娘は浅井の胤《たね》であって、柴田の子孫ではないから、これは秀吉の手に托しても仔細はあるまいと、二女を城外に送り出して、自分は二度目の夫柴田と運命を共にした――という物語が語られてある。が、一説によると、お市の方も実はこのとき救い出されたのだが、表面はドコまでも柴田と共に亡びたということにして置いて、秀吉がひそかに伴い帰って、大坂城の奥ふかく隠して置いたという説がある。それは確かな説ではないが、浅井の二女を獲《え》ただけは否《いな》み難い史上の事実で、その一人は今いう淀君、他の一人は徳川二代秀忠の室となった光源院。
 そういう歴史口碑は、誰も知っている。兵馬もそれを知って、今こうして目《ま》のあたり、その場に臨んでみると、英雄だの美人だのという歴史の色どりが、幻燈のように頭の中にうつって来る。お市の方や、淀君や、これを得たものの勝利のほほ笑みと、これを失うものの敗北の悲哀――いわゆる歴史というものも、人物というものも、色に始まり色に終る、といったような感慨も起って来る。爾来《じらい》、この池を天魔ヶ池と呼ぶことになったらしいのは、天下到るところに人気《にんき》嘖々《さくさく》たる古今の英雄秀吉も、この地へ来ては、まさしく天魔に相違ない。
 本来、柴田勝家という人が、猛将の名はあるけれども、悪人の誹《そし》りは残していない。織田の宿将で、充分に群雄を抑えるの貫禄を持っていたし、正面に争わせれば、あえて秀吉といえども遜色《そんしょく》のある将軍ではなかったけれども、いかにせん、地の利を得なかった。
 北陸の鎮《しずめ》が遠くして、中京に鞭《むち》を挙ぐるに及ばない間に、佐久間蛮甥の短慮にあやまられ、敏捷無類の猿面郎にしてやられたという次第だから、全力を尽しての興亡の争いとは言えなかっただけに、柴田方に尽きざる恨みが残るというものである。当年、この猛将を主《あるじ》として城下に生を安んじていた者にとっては、最も誇るべき好主であって、悪《にく》むべき悪政の主としての記憶は微塵もないはず。それを時の勢いに乗じて、脆《もろ》くも踏み破って、その妻妾を取って帰るというような猿面郎の成金ぶりには、むしろ憎悪を感じようとも、好感の持てようはずがない。
 日本の人気から言えば、猿面郎は天下取りであるけれども、この土地から言えば、天魔|来《きた》って好主を亡ぼす、と言って言えないこともない。他の地方ならば、秀吉の古跡を光栄として、これに「天下ヶ池」の名を附けたかも知れないが、ここでは「天魔ヶ池」という。まさに無理のない情合いもある、というようなことを兵馬が感じました。
 そういうような混み入る感情に、頭が縦横に働いたが、足羽の台に立つことしばし、歴史的の感傷がようやく去ってみると、ただ見る越前平野の彼方《かなた》遥《はる》かに隠見する加賀の白山――雲煙漠々として、その上を断雲がしきりに飛ぶ。今や雨を降らさんかの空に、風さえかけつけている。兵馬の眼と頭脳とは、はしなくも去って、あわら[#「あわら」に傍点]のいでゆの曾遊――といっても、たった今の朝、辞して出て来たその後朝《きぬぎぬ》のことに思い到ると、何かは知らず、腸《はらわた》がキリキリと廻るような思いが起って来ました。

         五十八

 福井を出立した宇津木兵馬は、浅水、江尻、水落、長泉寺、鯖江、府中、今宿、脇本、さば波、湯の尾、今庄、板取――松本峠を越えて、中河、つばえ――それから柳《やな》ヶ瀬《せ》へ来て越前と近江の国境《くにざかい》。その途中、鯖江を除いては城下とてはなく、宿々駅々も、表日本の方に比べて蕭条《しょうじょう》たるものでありましたけれども、それでも、歴史に多少とも興味を持つ兵馬は、もよりもよりの名所古蹟に相当足をとどめて、専《もっぱ》ら、北国大名と京都との往来交渉を考えたりなどして歩みました。そうして無事二十里の道を突破して、このところ、越前と近江の国境、柳ヶ瀬までの間、道の
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